ユーモアな前立腺がん闘病記
前立腺がんの闘病記と聞くと、シリアスかつ下の話が多いのではと、思うかもしれません。
ですが、ユーモアです。(下の話が多いのは否定しません)
手術の場合の後遺症って、なんなんですか? と私は訊いた。
主に尿漏れと性的不能です、と彼は答えた。
あはははは、と私は笑った。生きるか死ぬかの話をしているときに、漏らすか立つかの問題は、あまりに次元が違っていると思えたのだ。(p.44)
深刻さを微塵も感じさせない語りです。
なぜだろうと考えてみると、主人公が楽しそうなんですね。
例えば、行きつけのカフェが客でいっぱいで、店に入るのをためらっているとき、
思わずドアの取っ手に手をかけたのは、曇りガラスの片隅にぴったりと押し付けられた完璧なお尻のせいだった。(p.258)
妻子がいるのに、罪悪感を抱くことなく女性の色気を受け、アプローチさえしてしまう。すがすがしいです。
この人、死ぬまで元気だろうな、と思わせます。
以下に興味がある人におすすめです。
- 明るい闘病記
- 前立腺がん
- 詩
- ドイツの生活
一言あらすじ
前立腺がんを宣告された主人公は、手術を受けることを決心する。術前、術後の生活をユーモアに描く。
主要人物
- 僕:主人公。著者の近い人物
青空の色を隣の人と確かめることはできない
前立腺の摘出は、体から実体を取り除きます。
一方、色や匂いや痛みには、実体がありません。
(痛みなど)その感覚そのもの、赤ならば赤の「赤さ」そのものの質感(それをクオリアと呼ぶ)がどこからやってくるのかという問いに対して、僕らはまだ何も知らない。
(中略)
<僕>が青空を見上げるとき、その青のクオリアが、僕の隣で同じ空を見上げている人の青のクオリアと同じかどうか、確かめる術はない。(p.154)
隣の人と同じ空を見上げても、その空の色が同じなのか、確かめることはできないということですね。
同じものを見ていても、一人ひとりに違って見えているのかもしれません。
そう聞くと、人は孤独だと言われているような感じです。
主人公は、あることをきっかけに発見します。
私たちが詩を書いたり、画を描いたり、話を交わしたり無言で抱きあったりするのは、畢竟その波の根源が同じものであることを、確かめあっているに過ぎないのではないか。(中略)互いの赤を直接覗きこむことができないからこそ、言葉を尽くし、もどかしげに身振り手振りで。(p.279)
確かめられないけど、お互いにわかりあおうとはできると、励ましを受けている気持ちになれます。
そのために、言葉や画やコミュニケ―ションがあるのだと。
詩的でユーモアな前立腺がん闘病記です。
調べた言葉
荒涼:荒れ果ててものさびしいさま
往生:死んで他の世界で生まれ変わること
爾来(じらい):それ以来
落人(おちうど):戦いに負けて逃げていく人
貪婪(どんらん):欲が深いこと
作男:雇われて耕作する男
淫蕩:みだらな遊びにふけること
憮然:呆然とするさま
往年:過ぎ去った昔
無影灯:手術に用いる照射灯
睦言(むつごと):むつまじく語り合う言葉
曙光:夜明けの太陽の光
蠕動(ぜんどう):うごめくこと
臥薪嘗胆(がしんしょうたん):長い間の訓練に耐え、苦労すること
悄然:元気のないさま
衒い(てらい):ひけらかすこと
調度:身のまわりに置いてある道具
寡聞:知識が少ないこと
侃々諤々(かんかんがくがく):互いに正しいと思うことを主張し、議論すること
口八丁手八丁:話すこともすることも達者なこと
涅槃(ねはん):仏教で、すべての煩悩を解脱した悟りの境地
殊勝:もっともらしくおとなしいこと
忸怩(じくじ):恥じ入るさま
燦然:鮮やかに光り輝くさま
譫言(うわごと):馬鹿げたことば
放埓(ほうらつ):気ままにふるまうこと
退廃的:道徳がくずれて不健全なさま
沽券:人の値打ち。体面
わななく:体が小刻みにふるえる
岳父(がくふ):妻の父
第41回野間文芸新人賞の候補作についてはこちらです。