退屈と評された芥川賞候補
芥川賞の選評で、これほど「退屈」と言われた作品はあるでしょうか。
私も読んでいて退屈でした。
ただ、つまらないと切り捨てられませんでした。
この作品は、四世代の一家の声が、多様な視点で語られており、
壮大な記憶を作り上げています。
文章は濃密で、28歳の作者が老婆の心情をこれほど深く語れるのかと驚きました。
人物に憑依して書ける、古川さんの才能を感じました。
退屈に思ったのは、その一家で語られる内容が、あまりにも平坦だからです。
- 店の注文や片づけ
- 夫の入院
- 一族が集まる葬儀
一般的な出来事ばかりです。
それに、登場人物の魅力がいまいち伝わってきません。
老婆たちに、さして違いや特徴を感じ取ることはできませんでした。若者も同様です。
読んでいる間は、「老婆や若者という役割」を担った人間の心情を、追いかけているイメージです。
現実に近いと思いました。
大体の家系には、ぶっとんだ人はいないでしょうし、
同じ家系だから似ているのも当然です。
長々と語られる一族の声にうんざりしているのに、
なぜだか聞き入ってしまいました。
以下に興味がある人におすすめです。
- 夢、現実、記憶が交差する語り
- 一族にまたがる物語
- 方言
- 退屈さ
一言あらすじ
長崎の島を舞台に、四世代の一族の物語が、老婆や若者などの多様な視点で語られる。
主要人物
- 敬子:84歳で店を営む
- 多津子:敬子の妹。地元を出て大阪で暮らす
- 佐恵子:敬子と多津子の姉。
- 稔:佐恵子の孫でフリーター。佐恵子の葬式へ行く
縫い合わせるには語り続ける
佐恵子の葬式で、一族が集まります。
佐恵子の孫である、稔の語りです。
イサちゃんが死んでも婆ちゃんが死んでも、ぜんぜん湿っぽい雰囲気にはならん。ずっとしゃべり散らしてばっかりで、悲しい空気に浸るっていうことが、うちの家にはまるでないもんな (p.98)
葬式の段になれば、死に悲しまないのかもしれません。
死が日常に溶け込んでいるのもあるでしょう。
そんな日常に、死者である佐恵子だけがいません。
みんなして記憶ば出しあって笑いよったら、まるでいまも婆ちゃんが死んどらんで、あの頃の姿のままで島の家にいる感じがしてくる。ただきょうだけは、ここに来ることのできんで、忙しくしとるんやないか、そんな気がしてくる。そうたい、話しつづけるあいだだけは(p.124)
記憶を頼りに一族が話し合う間は、佐恵子の死さえ感じさせないようです。
語られなくなったら、記憶はほつれてしまいます。
ほつれないように、縫い合わせる必要があります。
縫い合わせるには、語り続けなければならないでしょう。
古川さんには、気のすむまでこの一族を語り続けてほしいです。
調べた言葉
- 鳶口:棒の先端に、トビのくちばしのような鉄製のかぎをつけた道具
- 安楽椅子:休息用のひじかけ椅子
- 輝映:かがやきうつる
- 褥(しとね):ふとん、ざぶとん
- 半鐘:非常時に警報として鳴らす鐘
- ひとしお:より一層
- 索漠:ものさびしいさま
- 帰依(きえ):神仏を信仰し、すがること
- 野良仕事:畑仕事
- 訓戒:教えさとし、いましめること
- 檀家:寺に所属し、布施をして寺の財政を支える家
- 粗野(そや):言動挙動が荒々しいこと
- 眇(すが)める:片方の目を細める
- 卒然:突然