死が中国人を思い出させる
冒頭は、
最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?
で始まり、それを調べるため、主人公は図書館へ出かけます。
しかし主人公は、
僕が最初の中国人に出会った正確な日付になんて誰が興味を持つ?
と、思い直し、調べることをやめます。
主人公が思い出せる小学校時代の出来事は、
- 中国人に出会ったこと
- 野球の試合で脳震とうを起こしたこと
だけです。
脳震とうを起こしたとき、主人公は、
大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる。
と言ったそうです。
何のことかわからないですが、
20年以上経った今でも、その言葉を思い出すそうです。
その言葉を頭にとどめながら、
僕は僕という一人の人間の存在と、僕という一人の人間が辿らなければならぬ道について考えてみる。そしてそのような思考が当然到達するはずの一点――死、について考えてみる。(中略)死はなぜかしら僕に中国人のことを思い出させる。
人生について考えたとき、行き着く先に「死」があるのはわかります。
ですが、「死」が中国人を思い出させるのは、なぜでしょうか。
「死」が思い出させる中国人の話に興味がある人におすすめです。
死が中国人を思い出させるのはなぜか
主人公が出会った中国人は3人います。
- 小学校時代:試験の監督官の男性
- 大学生時代:出版社のバイト仲間の女性
- 社会人時代:偶然再会した高校時代の同級生
その3人は、死と直結していません。
3人に共通するのは、主人公と日本で出会った中国人であることです。
在日中国人。日本が勝利した中国との戦争は、死と関連します。
バイト仲間の中国人の女性は言います。
「ここは私のいるべき場所じゃないのよ」
いるべき場所ではないのに、中国人女性は日本にいます。
試験監督の中国人男性は言います。
どんなに仲の良い友だちでも、やはりわかってもらえないこともある。そうですね? わたくしたち二つの国のあいだでもそれは同じです。でも努力さえすれば、わたくしたちはきっと仲良くなれる、わたくしはそう信じています。
「努力さえすれば、わたくしたちはきっと仲良くなれる」は、先の「埃さえ払えばまだ食べられる」と韻を踏んでいます。
隠されたテーマな感じがします。
高校の同級生の中国人男性は、中国人向けに百科事典を売っていました。
俺は日本人には売らなくてもいいことになってるんだよ。なんていうか、取り決めでね。
日本人の主人公は考えます。
いつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう。
日本と中国は、逆の立場になったかもしれないし、これからそうなる可能性はあり得ると、言っているように感じました。
収録作『午後の最後の芝生』の感想はこちらです。