小説の外に広がる世界
磯﨑憲一郎さんは選評で、
小説とは、作者の思想信条や問題意識を披露する場ではないし、溜め込んだ苦悩を吐露するための媒体でもない、具体性を積み上げることで自らの外側に広がる世界を照らし出し、作品という形で現前させる言語芸術なのだ
と書いています。そして『水と礫』がそういう小説だと言います。
村田沙耶香さんも選評で、
書かれている言葉だけではなく、「小説の外の世界」を存在させていた
と書いています。
二人とも、小説の外に広がる世界のことを書いています。
本作は、簡単に言うとループものです。
東京から地元に帰ってきた主人公が、らくだに乗って砂漠へ旅に出ます。
なぜ、主人公が砂漠を旅するかというと、
東京から運んできた悲しい水分を蒸発させるため
です。ここでの水分は、タイトルの「水」であり、マイナスの意味の比喩だと考えられます。
主人公は、命からがらで見知らぬ町の住人に助けられ、そこで暮らします。
すると章が終わり、旅に出る前の、東京での生活に戻ります。
それから地元に帰って、砂漠へ旅に出て、見知らぬ町に辿りついて、そこで生活し始めて――と、大枠は同じ流れに沿って物語が進んだところで、章が終わり、再び旅の前に戻ります。
ループするたびに、主人公の一族の歴史が広く語られ、物語に広がりが生まれます。
時空を超えて存在する人物がいて興味深いです。
「水」をネガティブな意味だとすると、「礫」は何でしょう。
「水」をネガティブにとらえる一方で、「礫」をポジティブにとらえています。
主人公にとって、潤いがマイナスで乾きがプラスのようです。
体内の比喩的な「水」は、砂漠の旅を終えても乾くことがありませんでした。
さらに乾きを求める主人公は、「礫」がはびこる大地に向かいます。
なぜ、主人公はそんなに乾きを求めるのでしょうか。
主人公の腹の底には、
後ろめたさでも後悔でもない、ただ水分としか呼びようのないものが、心の錘(おもり)
としてずっとあると言います。
ただ水分としか呼びようのないものを乾かすために旅をするとは、一体何でしょう。
水は安定をもたらすもの、砂漠や礫は切り開かれるものだと仮定します。
おじいさんになった主人公は、見たものや感じたものを「人生」という言葉でまとめることを否定します。
人生なんていうのは、人間がひとりじめする風景のことだ。でもそんなものは無いし、あっちゃいけない
(中略)
人生なんてものはない。お前の中には、みんなの風景が詰まってる。みんなの中にも、お前の風景がある
人生が自分ひとりのものではないと言われると、自分の死なんて取るに足らないものだと言われているようです。
主人公は、自分の存在を重く考えすぎないからこそ、全てを捨てて、見知らぬ土地を目指して旅に出られるのかもしれません。
切り開いた風景は、自分だけでなく、後の人間のためにもなると信じているからでしょう。
調べた言葉
- お仕着せ:制服
- スーパーハウス:物置
- 倦む:飽きて嫌になる
- 階梯(かいてい):階段
- おとがい:下あご
- 和毛(にこげ):やわらかな毛
- 符牒:隠語
- コケットリー:色っぽさやなまめかしさ
- 待降節:キリストの降誕を待ち望む期間
- 楚々(そそ):清らかで美しいさま
- 改悛:罪や過ちを悔い改め、心を入れかえること
- 身じろぎ:身体をちょっと動かすこと