生きた意味、生きる意味
主人公は、東北出身の74歳の女性です。
夫に先立たれ、残された家に一人で暮らしています。
一人の老後生活には、寂しさがつきまといますが、主人公はしたたかに生きています。
満二十四のときに故郷を離れてかれこれ五十年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりだ。なのに今、東北弁丸出しの言葉が心の中に氾濫している。
主人公の心の中では、大勢の人間が会話しているようです。
例えば、老いについて、
老いることは経験することと同義だろうか、分かることと同義だろうか。(中略)楽しいでねが。なんぼになっても分がるのは楽しい。内側からひそやかな声がする。その声にかぶさって、
んでもその先に何があんだべ。おらはこれがら何を分がろうとするのだべ、何が分がったらこごから逃してもらえるのだべ。
主人公には娘がいます。娘は結婚して子どももいますが、主人公の代わりに買い物をしてきてくれます。
娘の電話ぐらいで大喜びする自分が照れくさくて無表情を装っていたのが、ここにきて堪え切れなくなっている。
主人公が楽しく娘と電話していると、娘から、
お金貸してくれない
と言われます。咄嗟のことだったので、主人公は躊躇します。
躊躇した結果、娘を怒らせてしまいます。
主人公はかつて、息子を名乗る電話で、おれおれ詐欺に引っかかったことがありました。
むざむざと金を差し出すのは、息子の生に密着したあまり、息子の生の空虚を自分の責任と嘆くからだ。
息子の生の空虚を、自分の責任と重く受け止めた結果、おれおれ詐欺に引っかかってしまいました。
だからこそ主人公は、
自分より大事な子供などいない。
自分がやりたいことは自分がやる。簡単な理屈だ。子供に仮託してはいけない。仮託して、期待という名で縛ってはいけない。
という考えに変わっています。
このように強く生きていることもあれば、
何にもながったじゃい。亭主に早くに死なれるは、子供らとは疎遠だは、こんなに淋しい秋の日になるとは思わねがった。
という日もあります。心筋梗塞で急死した夫、家にめったに帰ってこない息子、主人公から離れていきそうな娘。
その日によって精神状態が変わるのは、当たり前でしょう。
子供も育て上げたし。亭主も見送ったし。(中略)世間から必要とされる役割はすべて終えた。きれいさっぱり用済みの人間であるのだ。
自ら用済みと言い切ってしまう、すがすがしさがあります。
用済みっていえば用済みなのかもしれません。別の捉え方をすれば、主人公は自由です。自由ゆえに何をしていいかわからず、思考の渦に飲み込まれている感じがあります。
意味を欲する。場合によっては意味そのものを作り上げる。耐えがたく苦しいことが身の内に起こったとき、その苦しみに意味を見出したい。その意味によってなるほどこの苦しみは自分に必要であったと納得できたとき、初めて痛みそのものを受け入れられるし、苦しむ今を肯定できる。
客観的に自分の存在意義を考えたからこそ、用済みだと主人公は言い切れたのでしょう。
ある日、主人公の娘の子ども(孫)が、家に突然来ます。
おばあちゃん、このお人形直して、ママがおばあちゃんなら直せるって言ったよ
と、腕のもげそうな人形を差し出します。
不意に出た主人公の東北弁が、孫に通じたことを不思議に思っていると、孫は、
あのね。うちのママ、コーフンすると東北弁になるんだよ。勉強さねばわがんねぇって
と言います。主人公は泣いてしまいます。東北育ちではない娘が東北弁を使うのは、母親である主人公の言葉の影響以外にありません。
泣いている理由を孫に問われても、主人公は孫の頭をガシガシなでるばかりです。
意味を欲した主人公が、
- 自分が生きた意味
- これから生きる意味
を同時にとらえた瞬間だと思いました。用済みでは、ありません。
調べた言葉
- 卑近(ひきん):身近でわかりやすいこと
- 半畳を入れる:他人の言動に対し、非難の声を入れる
- 尋常一様:普通と変わるところがないこと
- 無聊(ぶりょう):することがなくて退屈なこと
- 十年一日:長い年月の間、変わることなく同じ状態であること
- 繰り言:同じ愚痴を何度も繰り返し言うこと
- 蓬髪(ほうはつ):よもぎのように伸びて乱れた髪
- 燭光(しょっこう):ともしびの光
- 面映(おもは)ゆい:照れくさい
- 性急:気が短くてせっかちなこと
- 涵養:徐々に養い育てること
- プラトー:一時的に進歩が足踏みする状態