『デッドライン』のその後
2018年、主人公が大阪に住んでいるときの話がメインです。
主人公は、京都にある大学の准教授ですが、大阪に住んでいます。
長い間東京に住んでいた主人公にとって、
- 京都は「沈鬱な地方都市」
- 大阪は「関西の東京」
だと思ったからです。
かつて僕は二年で修論を書くことができず、しかもその二年目に実家が破産し、学業を諦めなければならない瀬戸際だった。しかし幸運にも三年目をやることを家族に許され
と、千葉さんの小説『デッドライン』の主人公と同一人物と読み取れます。つまり、『デッドライン』の主人公の約20年後の話でしょう。
『デッドライン』の感想はこちらです。2本書いています。
『デッドライン』はさまざまな境界線(動物と人間、男性と女性、ゲイとノンケ、修士論文完成と修士論文未完成)を示していました。
では、『オーバーヒート』は、何を示しているのでしょう。
「オーバーヒート」という言葉が作中で書かれているのは、2か所です。
一つは主人公が21歳のとき、走行中に車がオーバーヒートしたことです。
外に出て、土埃でくすんだ銀色のボンネットを眺める。湯気が出ていたりはしないが、オーバーヒートに違いない。
もう一つは、太陽光発電している友人宅を訪れたとき、主人公に生じた考えです。
太陽がすべて――本当にそれだけが真理で、降り注ぐ太陽エネルギーを我が身ひとつに浴びるだけでカネが生じるなら、どこでも生きていけてどこで死んでもいい。だがそれは、論理がオーバーヒートした抽象論なのだ。
主人公は、後者に近いセリフ(どこでも生きていけてどこで死んでもいい)を、行きつけのバーで話します。
僕はべつにいつ死んでもいいよ。これをやり遂げなきゃ死ねないとか、急に死んだらもったいないとか思わない。ここまでで十分生きてきたわけで、誰だって十分生きてきたんだよ。誰でも、今この時点までで十分に生きてる。だからいつ死んでも損なわけじゃない。
と、オーバーヒートしています。
それを聞いたバーの客は、
じゃあ今すぐ死ねよ
と言います。
主人公は、
べつに今すぐ死にたいわけじゃない。いつ死んでもいいってのは事故なんかで偶然的にってことで、意図的にいつ死んでもいいってことじゃないから
と返します。
論理がオーバーヒートした結果で死にたくはないが、車がオーバーヒートした結果の事故で死ぬのは致し方ないのでしょう。
タイトルにつけるわけですから、「オーバーヒート」に別の意味があるのかもしれません。
主人公はツイッターで、本音を別の言葉に変換してツイートしています。
例えば、本音は
新刊チェックなんぞクソくらえ
それを、
書くにはまず読まねばならないが、ある瞬間に、読むことがかえって妨げになる局面に気づく。ただ書くことが、あらゆる条件から逃げ出していく瞬間がある。
とツイートします。
高級感ある洞察に変換したわけだ。わかるまい。だが実は、勘づくやつがいるかもなという怯えがある。
この小説も、本質を変換して書かれているのかもしれません。
その本質を、私は勘づくことができませんでした。
文章は読みやすいし、知らない世界で刺激的です(男性同士の性描写が生々しすぎる点は苦手でしたが)。
40歳前後の主人公が、若い恋人(男性)に女々しく嫉妬し、涙ながらに怒りをぶつける姿に、情けなさと同時に人間らしさを感じました。
ただ、読んだ後に何が残るかというと、手のひらから砂がこぼれ落ちるように、残ったものを認識できませんでした。
『デッドライン』のときも、同じような印象を抱きました。結局何だったのだろう。何もわからないのですが、最後まで読ませる力があるのは確かです。
僕はあとでこの会話を文字に起こしてみようと思った。必要がないものから、また書き始める。
「この会話」は、本作で文字に起こされています。「必要がないものから、また書き始める」とあることから、千葉さんは必要がないものから書き溜めて、小説にしているのかもしれません。
調べた言葉
- アジテーション:扇動
- ホメオパシー:本来持っている自然治癒力、自己治癒過程に働きかけ、病気からの回復を手助けすること
- 論客:議論が巧みな人
- 痩せぎす:やせて骨ばって見えること
- かしずく:人に仕えて世話をする
- 鄙(ひな)びる:田舎らしい感じがする