タイトルが良い
タイトルに惹かれて手に取りました。
「八月の路上」だけだと暑そうです。
「路上に捨てる」だけだと物寂しい感じがします。
「八月の路上に捨てる」だと、暑さと物寂しさが相まって、夏の終わりの悲壮感ある雰囲気が伝わってきます。
それにタイトルが作品の内容に合っています。
30歳の主人公は、トラックに乗って自動販売機に缶を補充する仕事をしています。
8月最後の日でした。
タイトルの「八月の路上」とは、主人公が自動販売機に缶を補充している路上でしょう。
では、タイトルの「捨てる」は、何を示しているのでしょうか。
回想シーンで、似たような表現が出てきた箇所を抜粋します。
二十代も半ばを過ぎている。夢なんて大久保の排水溝に落っことした。新宿の路上で汗と一緒に流してしまった。それでもその先には、まっとうな幸せがあるような気もしている。
回想シーンで捨てているのは夢です。
主人公は脚本家になる夢がありましたが、うまくいきませんでした。
付き合っていた女性と結婚し、自動販売機に缶を補充するアルバイトを始めました。
バイトを始めたら、脚本どころではなくなってしまいました。
脚本家になれなくても、彼女との生活で、まっとうな幸せがあるような期待を持っていました。
ですが、それもうまくいきませんでした。
主人公は離婚を決意します。
8月の最後の日、主人公は離婚届を書き上げます。承認欄は、同僚の女性に書いてもらいました。
同僚の女性は32歳で、その日がトラックに乗る最後の日でした。9月からは総務課に移るため、缶の補充の仕事は今日で最後です。
同僚の女性は、千葉に引っ越します。彼女も離婚経験者で、新たな家庭を築くそうです。
同僚の女性と恋愛関係はないものの、主人公は、離婚することや美容院の女性と不倫していたことなど、身の上話をしていました。
8月で主人公から離れるのは2つです。
- 彼女:離婚届を提出するため
- 同僚の女性への思い:千葉に行くため
どちらも路上に捨ててはいません。
ただ、他に捨てたと言えるものはありません。
夢を捨てたことを「汗と一緒に流した」と比喩表現で言っていますので、それに対比する「路上に捨てる」も比喩表現だと考えられます。
すると、離婚届の提出、つまり彼女(=結婚生活)を捨てたと言えるでしょう。
8月最後の日の仕事帰り、主人公は無性に石を蹴りたくなります。
職場(営業所)の近くで、土の中にめり込んでいる石を見つけ、無我夢中で掘り起こしていると、
おいこらバイト、そんなところで遊んでるんじゃねえ。
と社員に言われます。
主人公は心の中で毒づきます。
遊んでなんかいねえよ。俺は一時たりとも遊んでなんかいなかったぞ。
石を掘り起こしている姿は、社員には遊んでいるように見えるかもしれません。
しかし読者にはわかります。主人公が遊んでなんかいなかったこと、本気で生きていたことがわかります。