一人称内多元視点
書き方が特殊です。
「ぼく」が使われているので、「ぼく」の視点から描かれている作品かと思いきや、他の登場人物の視点からも描かれます。
例えば、
山吉が振り向いて遣った視線の先にいたのはぼくだった
というように、視点が「ぼく」ではなく、「山吉」になっています。
この視点の交替を、選考委員の松浦理英子さんは、
一人称内多元視点
と呼んでいます。
「ぼく」がそのような視点を持てるのは友人の撮った映像を見たり後に話を聞いたりしているからだということも、読んでいる間に察せられる。そうしたかたちでの視点の交替あるいは共有は、本作品にシンボリックに描かれている「ひとつの生命体」のような鳥の群れのあり方にも通じている。
友人は、カメラを持って常に映像を記録しています。
友人の撮った映像を見ている「ぼく」が視点で、映像の中の「ぼく」が「山吉」の視線の先のいたと考えると、「山吉が振り向いて遣った視線の先にいたのはぼくだった」という文章も、考えられなくはないです。
ただ私は、こうした視点の交替に、読みにくさを感じました。
また、タイトルの「鳥がぼくらは祈り、」の意味がわかりませんでした。
「ぼくら」は、「ぼく」や「山吉」の他に、2人の高校生がいます。
計4人の高校生のぼくら。境遇は似ています。
- 親が自殺
- 家族が不仲(や疎遠)
境遇な似た人物が集まって「ぼくら」を形成しています。
わからないのは以下の点です。
- 「祈り、」の主体が鳥か、ぼくらか(鳥は祈れないのでぼくらなのでしょうが、だとしたら鳥の述語は何か)
- 何を祈ったのか
- 「、」に続く言葉は何か
読みにくく、理解できない点もありましたが、良かった点は2つありました。
- 父親の自殺により想起される、他の友人の父親の自殺
- 忘れないこと以上に、忘れないようにすること
1について。
「ぼくら」の一人の父親が自殺したことで、「ぼくら」のもう一人(父親が自殺している)が過去を思い出して苦しまないかを、第三者(「ぼくら」の三人目)が気に病んでいます。
再び過去に翻弄されるだろうか? また誰も手を伸ばすことのできない鬱屈した過去に引き戻されるのだろうか?
例えば、物語で「父親が自殺したこと」を知ると、読んでいる私は「自分の父親は自殺してない」と考えるでしょう。
仮に、「私の父親が自殺していた」とすると、物語で「登場人物の父親が自殺」したら、私は自分の父親の自殺を思い出すでしょう。当時のことで苦しむかもしれません。
ある人に起きた出来事(例:父親の自殺)が他の人間に知れ渡ったとき、他の人間が、関連している出来事(例:父親の自殺)を経験していたら、思い出して苦しむかもしれません。
そう思い悩む第三者(例:父親が自殺していない)を描けるのは、本作が、境遇が似ていて仲の良い4人の高校生を登場させているからでしょう。
2「忘れないこと以上に、忘れないようにすること」は、「ぼくら」の一人が、初めて会う妹に掛ける言葉です。
大事なのは、忘れないようにすることだ。忘れないことも大事だけど、それ以上に、忘れないようにすることだ。
少し臭いセリフですが、私は好きでした。