いっちの1000字読書感想文

平成生まれの30代。小説やビジネス書中心に感想を書いてます。

『家庭用安心坑夫』小砂川チト(著)の感想【坑道に立つマネキン人形を盗む】(群像新人賞受賞、芥川賞候補)

坑道に立つマネキン人形を盗む

タイトルの「家庭的安心坑夫」とは何でしょうか。

作中には明言されていません。

関連しているのは、主人公の実家近くのテーマパークの坑道にいる、ツトムというマネキン人形のことです

ツトムはその坑道の中腹に立っている、坑夫を模したマネキン人形のうちの一体だった

母は、このツトムを、主人公の父親だと言います

幼い主人公と母がテーマパークに行き、坑道にいるツトムに会うことを、母は「墓参り」と言っていました

30歳を過ぎた主人公は、渋谷のスクランブル交差点やコロナワクチンの集団接種会場で、ツトムの姿を見かけるようになります。

「墓参り」に行かなければならないと考えた主人公は、実家に帰省することを夫に伝えます。

ですが、夫は反対します。

介護要員にしかみてなかったんだよ、(中略)親子関係やり直したいなんてとんっだ大嘘だったじゃん(中略)全部終ったから、やっと東京、引っ越してこられたんじゃん。(中略)仕事なくなったせいで弱気になってんの?

主人公と夫の発言内容に食い違いがあります。

主人公の目的は、実家近くのテーマパークでツトムに会うことでしたが、夫はそう捉えていません。

夫は、主人公が実家で苦しんできたことを知っていて、やっと東京に出てこれたのに、また実家に帰るのかと反対しています。

主人公の父は、かつて、幼い主人公と母を家に残して出て行き、その後、親子関係をやり直したいと言ってきたようです。

反対する夫を家に残し、主人公は実家である秋田に向かいます

ツトムをあの鉱山のなかから盗み出す

なぜ、主人公はツトムを盗み出すのでしょうか。

母と自分の居なくなったあのボロ屋で、ひとり呆然と虚空を見つめるツトムの後ろ姿。(中略)潜在的に、これを望んでいたのだと思った。(中略)自分が父にされたのとおなじように、ツトムをあの家に置き去りにしてやらねばならなかったのだ

主人公の望んでいた「母と自分の居なくなったあのボロ屋で、ひとり呆然と虚空を見つめるツトムの後ろ姿」こそが、「家庭用安心坑夫」だと感じました。

幼い主人公と母を残して家を出た父への仕返しを、主人公は父の代わりであるツトムを家に残すことで果たしたかったのでしょう。

では、どうしてツトムなのでしょうか。

直接父に仕返しすればいいのではないでしょうか。

夫の「全部終ったから、やっと東京、引っ越してこられたんじゃん」から察するに、主人公の父は死んだのでしょう。

ツトムを盗み出した主人公が実家に戻ると、外は雪が降っていて、白髪のちいさな老人を見かけます

老人を家のうちがわへ招きいれてやった。まるでこれまでに何度もこんなことがあって、そうしたくなくてもそうしなければならないような気がしたからだった。(中略)とてもみじめで、悔しくて、この見知らぬ老人に対して感じる奇妙な苛立ちを、唾液といっしょに喉を鳴らして飲み下した

この老人は、主人公の父なのでしょう。

戻って来た父を、主人公は家に入れたくなかったけど、入れざるを得なかったのでしょう。

母の死後、あの実家で見知らぬ老人と過ごした日々のことぜんぶが終わってひとりやっと東京に出てきた二年前のこと

主人公は、父の介護をしてきたのだと思います。

実家に戻ろうとする主人公に、夫は反対しました。

反対を押し切って実家に戻った主人公が、東京に戻ってきたとき、夫の顔を思い出せなくなっていました。

ツトムを置き去りにしたせいで、わたしもまたこの団地に置き去りにされるのだと分って、それはいたって当然の報いだと思った

当然の報いなのでしょうか。夫を思い出せなくなる理由は、わかりませんでした。

主人公は悲惨な人生です。

幼い頃に父に出て行かれ、母には炭坑のマネキン人形を父だと言われ、母が死に、父が戻ってきて、父の介護をし、東京に出て、失業する。夫の存在は何だったのか、疑問は残ります。

主人公の境遇があまりにも可哀そうでした。