即死場所の読み方
吉野弘さんが、言葉に興味を呼び起こされるのは、
言葉の意味の重層性に立ち会うとき
だと言います。
日常使い馴れている言葉のある一つの意味が、ぐらついてしまって、一つの意味だけでは収拾がつかなくなってしまうときなのです。
例えば、崖っぷちにある「即死場所」という看板を見て、吉野さんは「即、死場所」と読むと言います。
危険な崖の上に限らず、人間はどこにいても、其所が死場所なのである。今生きている場所が、すぐさま死場所に変ずる可能性を誰までもが持っているのである。
ある事象(例えば即死場所と書かれた看板を見る)は、変わりようのない事実です。
事実から受け取る感覚は、人によって異なります。
吉野さん(だけでなく詩人や作家の方々)は、感性が豊かで、その感性を表現する技術が長けている(もしくは特徴がある)のだと感じました。
その人しか出せない感性を表現しているから、魅力的なのでしょう。
吉野さんは、すらすらと書けないこともあると言います。
詩的体験というものは、既に知っていることの中に、未知のものが割りこんだ状態ですから、既知の表現では、すらすらと書けないのが、むしろ当然なのです。
現代詩が難しく感じられるのは、未知のものを未知の表現で書かれているからかもしれません。知らない世界を知らない言葉で書かれたら、手も足も出ません。
吉野さんの詩が読みやすいのは、未知のものを、既知の表現で書いているからなのかもしれません。
言葉が行きづまった場合、それを自分の力の限界と考えて、詩作を中止します。勿論、放棄するわけではありません。時間を借ります。人の話を聞いたり、本を読んだり、という経験が加わります。その集積が、先の「わからなさ」を解くカになるのです。
吉野さんにとって、自分の力を限界を超えるには、
- 時間を置く
- 人の話を聞く
- 本を読む
- その他経験
その集積によって、限界を超えられるようです。
これは、吉野さんに限らず、私にも当てはまりそうです(おこがましいですが)。
例えば、本の感想を書くとき。
時間を置いたり、他の方のレビューを読んだり、別の本を読んだり、映画を観たりと、別のことをしている集積で、ふと感想を書けるようになります。
ちなみに本書の感想を書いているのは、読了後一週間以上経っています。本書の感想は書けないと思っていましたが、書き始めるとすんなり書けています(質は二の次で)。
壁にぶち当たったときは全く歯が立たなくても、時間が経ち、その間の経験の蓄積があれば、何とかなるときがくるかもしれないと思わせてもらいました。