誰の何のための小説か
私小説に近いフィクションとして読みました。
物語をたどるよりも、小説とは何かを考える読書体験でした。
メインの登場人物は、以下のとおり。
- 私(著者:町屋良平)
- あべくん(小学校時代の同級生)
町屋さんは、19歳のときにあべくんと再会します。
その後、あべくんから断続的にメールが届きます。
あべくんからおくられていた散文から着想されるシーンをかきついでいくなかであべくん自身の人生に似せたフィクションをつくりあげ、その反射してくるものとして商業作家となったかれ自身の人生のこともかいていく。
上記が本書の構成です。
こんなことしてなんになる?
町屋さんは自問します。
- あべくんはこの世にもういない
- 誰もあべくんの人生を覚えていない
- あべくん自身も自分のことを書かなかった
町屋さんは何のために書くのでしょうか。
あべくんのかいたフィクション性、キャラクター性にとぼしい文章を長くしていき、長編小説として再構築していくのをかれは止められずにいる。もともとはあべくんの文章にあこがれ模倣した文体を用いて青春群像劇をかき新人賞をうけてこの世に小説家として立った
ここでの「かれ」は、町屋さんのことです。
町屋さんは、あべくんの文章を模倣した文体で、デビュー作(『青が破れる』)を書いたようです。
町屋さんは長編小説を書くのに苦心していたようです。
長編小説を書く試みとして、町屋さんとあべくんは、同じ「かれ」として人称を共有します。
あべくんが私や固有名から撤退して世界へとすすみながら三人症からも減退するそのかれという人称に私も同体しあわさることで、かれらは「あべくん」というフィクションに合流し、それらを塗りかさねるようにあたらしい長編小説をかくことが可能かもという思いつきに取り憑かれることになった。
新しい長編小説をかく可能性として、「かれ」という人称を、町屋さんとあべくん両方に適用させています。
本書は一体、誰のための小説なんだろうと思いました。
小説はすぐ文体とかいって仰々しく主張するけどそれって読者のものなんだよ。文体って読者なの。ほんとに、傲慢だよ小説家って。
「文体は読者のため」ならわかりますが、「読者のもの」なのでしょうか。文体は作家のものではないのでしょうか。わかりません。
ほんとにこれは「やるしかない」フィクション、かくしかない小説だったのか?
町屋さんは、自問されながらこの作品を書いたと伺えます。
他に似た作品がない点で、「やるしかない」フィクションであり、かくしかない小説でしょう。
特に町屋さんにとっては、「やるしかない」フィクションであり、かくしかない小説に思えました。あべくんがいなければ、町屋良平という小説家が誕生していなかったかもしれないのですから。
一読者として、町屋良平という人間を垣間見る点では必読書ですが、町屋さんの作品を読んだことがない人にはおすすめできません。
「誰の何のための小説か」について。町屋さんの、町屋さんご自身および町屋作品が好きな人向けの小説です。