自由な野犬、鎖で繋がれてうなだれている犬
岸さんと柴崎さんのエッセイが、交互に書かれています。
岸さんは、大学進学時に名古屋から大阪に来て、30年以上住んでいます。
柴崎さんは、生まれも育ちも大阪。2005年に大阪を出て、東京に住んでます。
岸さんは、
大阪で子どもを育てたかった
と書いています。
移り住んだ人が、その場所を地元にするひとつに、子育てがあると言います。
子どもを育てるということは、学校、町内会、子供会、PTAなどの活動に参加する、ということであり、そうやって親同士もつながっていって、そこが地元というものになっていく。
子どもを育てることのない岸さんは、大阪が地元にはなりません。
親兄弟とも縁を切っていて、そして子どもも生まれなかったので、まるで真空から生まれてやがて真空に還っていくような人生
と言います。
一方で、
論文を書き上げて、寝ている連れあいに一言声をかけ、近所のショットバーを飲み歩いたりするときには、地元も家族もない自分自身の自由が愛おしくなる。こういう人生も悪くないと思う。
自由を謳歌することもできます。
生まれ育ったわけでもなく、地元にもなり得ない大阪に、岸さんはなぜ惹かれるのでしょうか。
大阪は、自分で見つけた、自分だけの街だ。
惹かれる理由はこれだと思います。
岸さんが大阪に生まれていたら、自分で見つけた「別の街」に惹かれていたでしょう。
自分で見つけた、自分だけの街。惹かれるには十分な理由です。
昔の大阪には、野犬がいたようです(大阪ではない私の地元にもいました)。
放し飼いされている犬もいたし、あるいは逆に、暗いガレージの奥で、短い鎖に繋がれて、餌だけを与えられて死ぬまでそこで生きる犬も多かった。(中略)繋がれて、どこにも行けず、同じ場所でたださみしいさみしいと思いながら死んでいく犬たち
岸さんは、自由な境遇を、放し飼いされている犬(野犬)に照らし合わせます。
放し飼いされている犬(野犬)がいる社会は、犬や猫にとって過酷だと言います。
繋がれてうなだれている犬を、もう見たくない。(中略)自由であることと、過酷であることは、どのどちらか一方だけを選ぶことはできないのである。
岸さんは、自由である反面、過酷でもあるのでしょう。
子どもができなかった私たちだが、そのかわり二人とも死ぬほど仕事をしていて、そしてこのまま死ぬほど仕事をして、いつか本当に死んでしまうんだなと思う。
放し飼いされている犬は、自由ですが、過酷な社会を生きなければいけません。
一方で、鎖でつながれている犬は、餌が与えられるので、過酷ではありません。
餌が与えられる犬の鎖を外しても、餌の時間になったら、また戻ってくるのではないでしょうか。
岸さんが自由な野犬なら、会社にしがみつく私は、鎖でつながれている犬です。
本当は、私の鎖は外されています。
鎖でつながれていないのに、外に出て行かず、月給という餌をむさぼっています。
外を走り回る犬がいるのに、小型犬のように吠えもせず、中から眺めるだけ。
外の世界に出ていないのに、本を読んで知ったような気になって満足しています。
鎖でつながれていないのに、会社に行く前はうなだれて、辞めればいいのに、安定給を捨てきれず、外に出ません。
そのくせ、何かと会社のせいにして、鎖でつながれたふりをしています。
「鎖、つながってないんだから、外に出てみなよ」
そう言われるのが怖いです。外に出たら、餌にありつけなくなる恐れがあります。
外の世界には餌がないなんて、繋がれた鎖と同じ、勝手な思い込みかもしれないのに。