私小説的小説
金原ひとみさんが、
- 『文藝 2022年秋季号』の
- 「私小説的小説10」
で本書を選んでいたので、私小説に近い小説として読みました。
実際、私小説に近いと感じました。例えば、
- 主人公が、佐世保市出身の小説家
- 章のタイトルに「ブルー」があり、デビュー前のことが記載(デビュー作『限りなく透明に近いブルー』から取ったものだと思われます)
私小説に近い作品だとして、小説のタイトルが、『MISSING 失われているもの』とはどういう意味か、気になりました。
探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ。何かが失われている。
曖昧とした世界で、主人公が自問します。
作品全体が、主人公の脳内で展開されているとも言えます。
今主人公がどこにいて、誰といるのか、つかめなくなります。
夢なのか幻想なのか、わかりません。わからなくても読めてしまうのは、村上さんの力量です。
失われているものとは、一体何なのでしょうか。
人生は、あるときから、確実に変化する。それまでに得てきたもの、ともに生きてきたものを、少しずつ、または一挙に、失うようになる。その変化は、決して逆行することがない
失われるものは、
- それまでに得てきたもの
- ともに生きてきたもの
と書かれています。
- それまでに得たきたものを「経験」
- ともに生きてきたものを「(人や物との)関係」
- すべて包括して「記憶」
と、私は捉えました。
本書では、
- 主人公の幼少期の経験
- 父母や犬、かつて交流のあった女優との関係
が描かれます。
その変化は、決して逆行することがない
とあるとおり、得てきたもの(経験)やともに生きてきたもの(関係)を取り戻すことはできません。
母や女優の語りは、実際には話されていなく、主人公の記憶により表現されているところもあります。
記憶として強く刻まれ、決して消えることがないのは、残像となった、失われたものの記憶だ。正確には「失われたもの」ではない。残像が存在しているので、それは常に「失われている」という現在形になる。
失われている状態を、失った状態に戻すことはできません。
取り戻すことができないとすると、本書は、失われているもの(記憶)を残像から解釈していると、私は結論付けました。
残像を表現しているだけではなく、残像から記憶を解釈しているように感じます。
本書が私小説だとすると、主人公の記憶を解釈しているというより、村上龍という人間を解釈していると言えるでしょう。
作品を書いているとき以外、記憶は、不安や恐怖や感傷や絶望と同義語だ。失われているものだけを浮かび上がらせる。
主人公は、心療内科にかかっています。記憶と同義語である、不安や恐怖や感傷や絶望が原因でしょう。
心療内科医は主人公に言います。
あなたは、自分が、精神的な不安定さを受け入れることができるというだけではなく、精神的に不安定な自分だけが本当の自分だということも、わかっているはずです
精神的な不安定さは、主人公が作品を書く上で必要なのでしょう。
作品を書いているときだけは、記憶は主人公の力になってくれます。
主人公にとって失われているものを浮かび上がらせ、解釈したのが本作です。
感想②はこちらです。