シーンを象徴にする
小川哲さんと町屋良平さんの対談です。
- 小川哲さんはエンタメの新人賞(ハヤカワSFコンテスト)出身で、直木賞受賞
- 町屋良平さんは純文学の新人賞(文藝賞)出身で、芥川賞受賞
小川さんのエレベーターに乗ったときの思考の跳躍に、驚きました。
- 閉まりかけたエレベーター近くで、小川さんが声を出したら、入れてもらえた
- 小川さんが閉ボタンを押し、閉まりかけたとき、エレベーターの外で別の人が声を出した
そのとき小川さんはどうするか考えます。
果たして自分にこの開くボタンを押す権利があるのかと。
僕は、そのエレベーターの中では一番の新参者なんです。ボタンのところに立っているから、扉を開けることはできます。でも後ろの視線を感じるわけですね。「おい、わかっているな、お前で最後だぞ」みたいな。
この思考が純文学っぽいなと思いましたが、私の考えは単純で甘かったです。
開くボタンを押さなかった小川さんの思考は飛躍して、ケント・ギルバート(保守派のアメリカ人論客)が、なぜ右翼化したのかを考えたと言います。
ひょっとしたら僕みたいに、エレベーターをギリギリ開けて入れてもらったんじゃないかと。要は、日本というエレベーターの最後に温情で入れてもらったという自覚がある。だからこそ次から入ってこようとする奴には閉まるボタンを押すんじゃないかって。
町屋さんは、「すごい(笑)」と言います。
小川さんだけなのか、作家によくあるような思考の飛躍なのかはわかりませんでしたが、私は驚きました。
私にとっては、「すごい(笑)」でなく、「すごい!」でした。
ギリギリ乗せてもらったエレベーターで、閉めるボタンを押す権利があるか考えるのは、私でもかろうじて思いつけるかもしれません(思いつけたらガッツポーズするでしょうが)。
しかし、ケント・ギルバートの右翼化への思考の飛躍は、できる気がしません。
単なる「エレベーターあるある」だけで完結するのではなく、そのシーンをメタファーとか象徴にしちゃうんですよね。
この思考の跳躍が、作家には必要だと思いました(小川さんや町屋さんが言ってるわけではないですが)。
何かを思い浮かんだら、そのまま表現するだけでなく、構造を一つ二つ積み重ねる。そうすることで、今までになかったものが浮かび上がる気がしました。
町屋さんが、高橋源一郎さんの言葉で、新人賞をフィギュアスケートで喩えた例を出してます。
- 四回転を跳ぼうとして、二回転になっちゃったような小説
- 三回転を跳ぼうとして、ちゃんと三回転を跳んだ小説
新人賞で評価されるのは前者(四回転跳ぼうとして二回転になった小説)だそうです。
読み手が、ただの二回転ではないと判断するのは難しいとしつつも、
町屋さんも小川さんも、四回転を跳ぼうとして二回転になった小説を高く評価するようです。
読み手が、四回転跳ぼうとしてる小説だと判断するのが難しいのと同様、書き手も、四回転跳ぼうとする小説がどんなものか、判断するのは難しいと思います。
そのヒントとして、思考の跳躍が、四回転を飛ぼうとすることに寄与できると、私は考えました。
エレベーターの開く閉めるの攻防から、ケント・ギルバードの右翼化を想起する跳躍は、四回転を跳ぼうとしてる感じがあります。
思ったことをそのまま書かず、メタファーや象徴として文章にすることが、作家を目指す人にヒントになると思いました。