エッセイスト、随筆家になるには
エッセイの書き方を学びたくて、手に取りました。
タイトルに「小史」とあるとおり、エッセイの簡単な歴史が書かれてます。
エッセイ賞の選考委員を務めた井上ひさしさんは、
エッセイとは自慢話のことである
と、選評に何度か書いたようです。
自分はこんな体験をした。こんなことを考えている……といった記述は全て自慢であり、それらの自慢に様々な工夫を施し、臭みを抜いて読者に提供するのがエッセイなのだ
エッセイを書くにあたっては、
- 自慢だと認識した上で、
- 工夫を施し、臭みを抜く
のが必要なのでしょう。
ビジネス書もそうですが、自慢話として受け取った瞬間、読むのがきつくなります。
では、どうやって工夫を施し、臭みを抜くか。
「ちょっといいこと」を書けば「私、実は善良なところもあるんです」というアピールになるし、露悪的に書けば「自分の悪いところも隠さずさらけ出すことができます」ということに。中心にであれ端にであれ、生身の「自分」を存在させないと成立しないエッセイという芸は、必ず自身のアピール行為となる宿命を負っています。
これはもう、何を書いても自慢と受け取られかねません。
書き手が自慢だと自覚すれば臭みが抜けるかというと、そうでもないでしょう。
ゆるい文体で書いて自慢臭さを排除できればいいですが、わざとやってる感が出てしまったら逆効果です。
憂鬱をユーウツと書いたり、分析をブンセキと書いたりする、昭和軽薄体と呼ばれる文体は、古臭いし、わざとらしいです。
誇張せずに、ありのままを淡々と書かれてるのが、私は好みです。
阿川佐和子さんのエッセイの定義で、
エッセイは読者が本当のことを書いていると思い込んで読むものだ
に、なるほどと思いました。
エッセイに本当のことが書いてあるか否かは、実はどうでもいい。読者がどのような気持ちで読むかによって、エッセイか否かの線引きがなされるのだ
エッセイとして売り出されたら、読者としては、作者が自分自身のことを書いてると思います。
嘘が書かれてるとは思いません。
しかし、小説は違います。
小説は創作なのに、作者に近い主人公が出てきたら、これは作者のことだと思ってしまいます。
エッセイと私小説の境目が、わからなくなってきました。
少なくとも、エッセイには嘘が書かれてるとは想定してないし、小説には嘘が混じってると想定してます。
「エッセイに本当のことが書いてあるか否かは、実はどうでもいい」とは言い切れない気持ちが、私にはあります。
本当のことを書いてあってほしいという願望です。
書かれてることが本当ではなかったとき、読者への裏切りを感じる気がします。
だったらエッセイじゃなくて創作と銘打ってくれよと思います。
どうやったらエッセイストになれるか。
かつては、「別のジャンルで一流になることが一番の近道」と、私は答えていました。芸能関係でもスポーツでも料理でも、何かの分野で有名になると「本を書きませんか」ということになり、そこでエッセイの才能を開花させることができるのでは、と。
「かつては」とあることから、今は別の道もあると、酒井さんは考えてるのでしょう。
一般人がデビューへの足掛かりにすることができる新人賞が存在する小説の世界とは異なり、エッセイの世界にその手の新人賞はほとんど存在しません。(中略)今はネットの発達によって、非有名人も文章を発表することができる場が出現。
エッセイストになるには、
- 別のジャンルで一流になる
- ネットに書いて、編集者に見つけてもらう
ネットからデビューできるのはごくわずかでしょうから、一番の近道は、「別ジャンルで一流になる」のような気がします。
非有名人としてエッセイを書くなら何を書けばいいのか。
エッセイの読み心地には、
- へーえ!
- あるある
に二分されると、酒井さんは言います。
- へーえ!系:海外経験や、特別・特殊な体験や知識をベースにする
- あるある系:誰もが経験してる一般的な事象で、目にとまらないことや言葉にされてなかった感情を抽出し、読者に納得感をもたらす
昔の有名人の稀有な体験から生まれるエッセイは、へーえ!系に感じます。
又吉さんはじめ、近年の芸人さんのエッセイは、あるある系に感じます。
ジェーン・スーさんは、mixiで書いていた日記が編集者の目にとまり、デビューしたようです(その日記がへーえ!系なのか、あるある系なのかわかりませんが、一般人の日記ということから、あるある系だと予想します)。
非有名人がエッセイストになるには、今まで言語化されてなかった事象や感情を、わかりやすく言語化するのがよさそうだと思いました(一番の近道は、別ジャンルで一流になることでしょうが)。
エッセイストになりたい非有名人が目指すべき像は、自分の知らない感情を言語化して引き出してくれる、ナンシー関さんだと思いました。