溺れてる人がいたらどうするか
感想①はこちらです。
比喩的に、主人公は溺れています。
修学旅行の自由行動の1日で、叔父に会いに行くわけですから。
班を離れ、単独行動を希望する主人公。
毎日薬の服用が必要で、吃音持ちの「松」は、主人公への同行を希望します。
主人公と松は、仲の良い間柄には見えませんでした。
どうして、松は、主人公に同行したいと思ったのでしょうか。
松の母親が主人公(佐田)に言います。
佐田くんが一番やさしいって。ほら、あの子の直感ってすごく鋭いじゃない?
主人公のどのあたりが、松にやさしいのかというと、
僕はただちょっとばかし吃音に慣れてたり、愛着があったりしたってだけなんだ
と、主人公は少なからず、やさしさの自覚はあるようです。
修学旅行の自由行動での行き先の希望に、松は、
みんなの行きたいところ
と書いていました。
この時点では、みんなの中に主人公がいます。
しかし、主人公(佐田)が「日野」を希望し、その理由を班員に説明しないでいると、松は、
佐田くんの行きたいところ
に希望を変えました。
みんなではなく、主人公(佐田)の希望に寄ったのです。
どうしてかを考えると、主人公が溺れているように、松には見えていたのかもしれません。
松がいなければ、主人公に同行する者は現れず、主人公は一人で日野に行ったでしょう。
そして、自由時間終了の時刻に合わせて、待ち合わせ場所に戻ってきたと思います。
そうすると、主人公は叔父さんに会うことができていません。
松と主人公の2人だけでも、叔父さんに会うことはできなかったでしょう。
「蔵並」の
いや、もっと待てる
からの計画がなければ、無理でした。
計画を実現するにも、交渉する「大日向」の存在が不可欠でした。
「松」が言い出して、「蔵並」が柔軟に計画して、「大日向」が間を取り持ったから、主人公は、叔父さんと会い、無事に帰ってくることができました。
誰が欠けても、実現できませんでした。みんながいたから、実現できたことです。
蔵並は言います。
お前らだけが一緒に溺れたら、お前らだけが日野に来て何にもならなかったら、俺にはわからないままだ。でも、溺れてる奴と一緒に溺れようとしている奴、まとめて助けようとする人間がいたら、わかるかもしれない
- 溺れてる奴:主人公
- 一緒に溺れようとしている奴:松
- まとめて助けようとする人間:蔵並
とすると、大日向は、まとめて助けようとする人間を助ける人間でしょう。
主人公一人だけでは溺れるだけでした。
松が一緒に溺れようとしたから、蔵並はまとめて助けようとし、大日向もそこに乗っかったわけです。
大日向は言います。
だって面白そうだろ、こっちの方が
私は溺れたくないし、溺れてる人がいても一緒に溺れようとはしない、傍観者でしょう。助ける力もありません。
ただ、一緒に溺れようとする人も、助けようとする人も、良いなと思いました。