選評を読んで
舞台は、都会の賃貸マンションの一室です。
一人暮らし用の部屋で、入居者が頻繁に入れ替わります。
その部屋に住む人たちの生活が描かれます。
文章は読みやすく、最後まで一気に読めました。
「もぬけの考察」は、本作の一つの章のタイトルです。
「もぬけの殻になった部屋で考察する」という意味に、捉えました。
選考委員の柴崎由香さんは、
最後に「考察」の章が置かれ、さらに考察の説明として語られることで、都市伝説系怪談やオムニバスドラマの枠組みの踏襲に感じられた。
「世にも奇妙な物語」や「本当にあった怖い話」のことでしょう。
確かに、ドラマの原作になり得ると思いました。
松浦理英子さんは、
選考委員の多くから「深夜のホラー・ドラマのよう」という感想が出たのは、実験性がまだまだ不徹底であることと、筆遣いに今一つ生々しさがないことが原因か。
「実験性がまだまだ不徹底」だとは、私は感じませんでした。
それに、松浦の書き方では、「深夜のホラー・ドラマ」も実験性が不徹底と言っているように聞こえます。
「筆遣いに今一つ生々しさがない」とは、どの場面のどういうところか、具体的に知りたかったです。
最後に作品の絵解きのような章があるのは蛇足だし、実験が不徹底なことの言いわけのようにも思えて残念だった。
最後の章(「もぬけの考察」の章)があること自体は、私は蛇足だと思いませんでした。
ただ、そこで描かれる内容(自分の描いた絵に吸収されてしまう)が、明らかに嘘だと感じます。
「ダウト」と心の中でつぶやいてしまうような。
最後の章が嘘に感じると、今までの話も嘘だったと思ってしまうのが、残念でした。
小説だから創作だし、嘘が悪いわけではありません。
しかし、嘘であっても、作品に本当らしさがないと、読者として、何を読んでるんだろうと思ってしまいます。
本作の冒頭、
初音の趣味は蜘蛛を飼い殺すことである。
これは興味を惹かれます。どうやって飼い殺すのだろうと、続きを読みたくなります。
私は実体を失って私の描いた絵に吸収されてしまったようだった。
これは嘘でしょう。なんでそんなに冷静なのかと、思ってしまいます。
絵に吸収された人間が考えるのは、どうやったら絵から抜け出せるかだと思います。
絵に吸収された焦りを、一切感じられません。
松浦さんの言う「筆遣いに今一つ生々しさがない」は、絵に吸収されている場面を言っているのかもしれません。
「生々しさ」を「本当らしさ」と読み替えたとしたら、この場面は、生々しさを感じませんでした。
町田康さんは、
読み終わった印象はもぬけで、心に何も残らなかった。それがよいのか悪いのかも考えられない。それほどになにも残らない。
心に何も残らない作品が、よいわけはないと思いました。
私は面白かったです。読みやすかったですし。