詩の公募コンクールの審査
吉野弘さんは、詩のコンクールの審査をしていました。
ある詩の募集は子どもからで、お題は「おかあさん」でした。
大人の詩の場合は、最初の何行かを読めば力倆(りきりょう)のおよその検討がつくけれど、子供の詩の場合は、すばらしい一行が、よく終りのほうに潜んでいることが多く気を抜くことができない。
大人の詩は、最初の何行かで良し悪しを判断されると考えると、切ないです。
小説の公募の審査も、最初の数ページで判断されると聞いたことがあります。プロは瞬時に読めてしまうんですね。
吉野さんは、「おかあさん」を書いた子どもの詩はいくつかの型があり、退屈だと言います。
- おかあさんは魔法使い(料理、洗濯、裁縫、なんでもできる)
- おかあさんの手が荒れている、手が温かい
- おかあさんの頭に白髪が増えた、額に皺が増えた(心配をかけているせいか)
- おかあさんはいいにおいがする(石鹸、味噌汁のにおい)
- おかあさんは口うるさく注意するが、自分のことを思ってるのだから感謝
- その他の類似(体形、体重、声、長電話、化粧、内職)
おかあさんを題材に詩を書く場合、上記の類型にあてはまったら賞は取れません。
コンクールで賞を取るには、他の人が発想しない視点が必要なのでしょう。個人的なエピソードを書くのが強いです。
受賞した作品「おかあさんと おじいさんのけんか」について。
おじいさんが棒でおかあさんの肩をなぐり、おかあさんが竹でおじいさんをなぐり返します。おじいさんは、米を隠します。
それを見ていた書き手(小学生)は、
おかあさんに こめを かってあげたい
と思って、詩は終わります。
吉野さんはこの詩について、
(書き手の)目に、おかあさんが、おじいさんが、棒が、肩が、竹が、そして、寄り添うようにして歩いたであろう家族の、家出の姿が、はっきりと見えてしまった
普通の家庭では、小学生が母親を見つめる機会が少ないためか、はっきりとは見えないと言います。小学生が母親の存在を、わざわざ意識する必要がないからだそうです。
そして吉野さんは、母親の存在をわざわざ意識する必要はないと言います。
必要があれば、言葉はいつだって人に力を貸す。
もう一つの受賞作品「おかあさん」について。
おかあさんと
おすうもうをとると
はじめぼくが たおれる
それから
おかあさんが たおれる
どうしてだろう
吉野さんは、
倒れた子供を一人きりにはしないで、追いかけるように倒れてくれるおかあさんの姿こそ、子供にこの言葉を決定的に選ばせた
と言います。
最後の「どうしてだろう」について、
おかあさんの愛情だということは、うすうす感づいていても、わざわざ倒れてくれることが、子供にはふしぎなのだ。
私は、どちらの小学生の詩にも良さを感じました。
良さは、書き手の詩的感性というより、具体的な出来事(母と祖父の殴り合いのけんか、母との相撲)を言葉で表現していることに対してです。
さらに、人物の行動(祖父が米を隠してしまう、母が追いかけるように倒れてくる)にキャラクターが出ていて、それを書けていることがうまいと感心しました。