なぜ出版禁止か
『出版禁止』は、「放送禁止」シリーズの作者である長江俊和さんの小説作品です。
「放送禁止」とは、放送禁止になった映像を再編集したという設定の、フィクションです。
「放送禁止」は、
- なぜ、放送禁止になったのか
- どの部分で、放送禁止と判断されたのか
を考察しながら見ることができます。
それを『出版禁止』に当てはめると、
- なぜ、出版禁止になったのか
- どの部分で、出版禁止と判断されたのか
なぜ、出版禁止になったのかについて、作者の「おことわり」を抜粋します。
『いやしの村滞在記』は、奈良県に実在した団体を取材したノンフィクションであり、取材者自らが自費で出版した、いわゆる私家本でした。ですから、本来は部外者が目にすることはなく、門外不出として、外部への持ち出しは固く禁じられていたようです。
出版禁止というより、外部への持ち出し禁止です。
自費出版として出版はされていますが、外部へは持ち出してはいけないという本です。
外部に流出したのは、
ルポの中に凄惨な殺人事件の一部始終が記録されていたからでした。
凄惨な殺人事件とは、いやしの村で行われた儀式のことでしょう。
この度、復刻されることになったのは、文中に記述された事件の捜査が長期化していることが大きな要因でした。発生から十年以上経った今でも、事件は未だ解決していません。新たな情報を収集する意味においても、今回の出版は意義があるとされ、警察や関係各位から許諾を得ることが可能になったのです。
捜査が長期化している事件とは、いやしの村で行われた儀式による殺人のことでしょう。
『いやしの村滞在記』には、儀式による殺人の一部始終が書かれています。
それを読めば、首謀者はわかります。
ただ、復刻する必要性を感じませんでした。
警察や関係各位だけで読めば、一般市民から情報を得る必要がないと感じました。
すでに警察は、首謀者と関係者数名を指名手配しています。
本を出版して、それ以上、どんなの情報を期待しているのでしょうか。
取材者の言葉には、
彼らは決して過ちを犯したわけではない。
違法行為なのは事実かもしれないが、彼らは法律が制定されるよりもずっと前から続いている、神と人間の理を実行したにすぎないのだ。
とあります。儀式による殺人の正当化として、読まれてしまう可能性があります。
本を世に出さなくとも、儀式の関係者については、警察内で把握できます。
すると、警察が新たな情報を収集したいのは、儀式による殺人ではない可能性があります。
儀式による殺人以外で、よくわからない事故があります。
取材者は「まえがき」で、
私の知人が、不慮の事故で命を落としたのだ。その事実を知って、私は慟哭するほど、歓喜に打ち震えたのである。
と書いてます。「取材を終えて」では、
先日、私の知人が亡くなった。不慮の事故で命を落としたという訃報が届いたのだ。その事実を知ったときは愕然とした。
胸の内側から激しい慟哭がこみ上げてくる。両目から熱い液体が頬をつたうのを感じた。思わず膝から崩れ落ちる。
「まえがき」と「取材を終えて」で、取材者の、知人の死への反応が異なります。
「まえがき」では歓喜に震え、「取材を終えて」では愕然としています。
取材者の知人の死については詳しく書かれていませんが、不慮の事故で命を落とした事実について、警察が情報を求めている可能性があります。