三月十二日を忘れない
主人公の女子高生は、東日本大震災を経験しました。
- 2011年(被災、美術部での活動)
- 2016年~2021年(仙台での大学生活、フリーペーパーの編集者)
高校で美術部に所属する主人公は、高校最後のコンクールで「滝」を描きます。主人公にとっては良い出来だったのですが、コンクールでは最優秀賞を逃します。
最優秀賞は、私と同じ岩手県の沿岸、大船渡市の女子生徒のものだった。ごみごみしてどす黒いがれきの下で、双葉が朝露を湛えて芽吹く絵だった。あまりにも作為的で、写実的とは言いにくいモチーフだった。
主人公は、純粋な絵の評価ではないとして、納得できません。
審査されているのは純粋にこの作品ではなく、「この作品を描いた高校生」なのではないか。作品と作者の不遇を紐づけてその感動を評価に加点するならば「特別震災復興賞」という賞でも新設すればよかったのに、とすら思った。
最優秀賞を獲れなかった主人公が、自分の描いた「滝」の絵を蹴ろうとして、
「んら!」と声が出た。
の「んら!」にキャラが出ています。
「何を描いてるか」に付随する「誰が描いているか」は、ついて回ります。
震災後、主人公が教育委員会関係の連盟から依頼されて絵を描いたとき、新聞社から取材されたのは、絵の内容ではなく、タイトルに込められた思いでした。
絵ではなく、被災地に向けてメッセージを届けようとする高校生によろこんでいるんだ
絵の技術のことではなく、絵に込められた思いを聞かれることに、主人公はいい気がしません。新聞社から誘導された質問が、あたかも主人公の思いとして掲載されます。
社会人になっても、
私は未だに震災に対して捻くれてばかりいる。もっとシンプルに構え、努力したり協力したりすることができていれば、何ができたのだろう。(中略)もう九年も経とうとしているのに、私はまだ自分のことばかり考えている。
この身勝手さについて、主人公は客観的な分析ができているのに、それでも自分中心にしか考えられないという、どうしようもなさの描き方が良いです。
ただ、フリーペーパーの特集の取材相手に対して、当初予定していたテーマよりも、別のテーマの方がコンテンツ力が高いと偶然知ったとき、別のテーマをメインに取材をした方がいいと主人公が判断したのは、自分中心で考えているわけではないと思います。
読者を想定したら、別のテーマの方が需要があるし目を引くだろうと、主人公が判断したからで、間違っているわけではありません。しかし、取材相手の方から、当初予定したテーマでお願いしますと断られてしまいます。
読んでいて気になる点が多い作品でした。例えば、
- 女性教師を「ちゃん付け」で呼ぶ生徒(ありきたりに感じた)
- 「〇〇する自分がいた」という表現の多用(自分はずっとそこにいるから、違和感がある)
- 長台詞の応酬(置いてきぼりにされた気分)
です。一番は、物事を0か100かでしか考えられない登場人物が多いことです。主人公以外にも、
- 被災地ボランティアをしたら、担当の大学教授から「本当に美しい努力だ」と言われて、「死ね」と言って退学した女子大生
- 上司に「震災採用なのに辞めたら後悔するぞ」と言われて、有名広告代理店を即退職した男性
がいます。さらに、その行動を、相手にそう言われたからと、被害者意識でいることに幼さを感じました。誰かにフォローされる前提で、被害者意識でいる気がしました(実際、誰かしらにフォローされています)。
被害者意識でいる人物がいけないわけではないですし、実際いるのでしょうが、そんな人が多いので、「ああ、また誰も自分のことをわかってくれない系の人か」と思ってしまいます。
良かったのは、
怯えて眠れなかった三月十二日を忘れない。
です。 三月十一日ではなく三月十二日なのが、三月十一日は怯えるどころではなかったのだろうかなどと、想像の幅を広げるのが、良かったです。