膨大な読書量に裏付けされた感覚
作者が18歳というのが、どうしても目についてしまいます。
若い感性で書かれた小説ね、と思ってしまいます。
よくない先入観です。早計でした。
言葉の引き出しが凄まじい作品でした。
- 作品を読んで、
- 選評を読んで、
- 対談を読みました
対談を読んだ後、再び作品を読んで、選評を読みました。
再読しようと思ったのは、受賞対談を読んだからです。
選考委員の穂村弘さんとの受賞対談で、
現代の日本やったら乗代雄介さんが好きですが、翻訳小説を読むことのほうが多いです。
と言ってて、好感を持てます。
特に、日本の作家で乗代さんの名前だけ出すあたり、肝が据わってるなと思いました(聞き手の穂村さんには、乗代さんについて掘り下げて聞いてもらいたかったですが)。
近くの図書館では一度に二十冊まで借りれたんですけど、家族四人分のカードを使って、八十冊分くらい借りていました。
本物の読書家ですね。
今の自分を構成する三つの小説というのがあって、フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』の三作です。
私はどれも読んだことないですし、タイトルも作家の名前も知りませんでした。
本作は、若い感性で書かれたものではないでしょう。
膨大な読書量に裏付けされた、日比野さんの感覚によって書かれた作品だと思いました。
物語自体はシンプルです。
3人の高校生が、日々の高校生活を私小説として書く、というものです。
女子高生2人と、男子高生1人。
3人は、毎週金曜日に通う「ことばぁ」という老婆から、言葉の処方箋をもらいます。
- 女子高生2人が似通っている
- 「ことばぁ」の言葉がよくわからない
- 「ことばぁ」に魅力を感じない
ですが、最後まで一気に読ませる力が、本作にはあります。
この感覚すごいなと思う文章が多数出てきます。
流行りの動画のコメント欄の一番いいねついてるコメントからパクってきたみたいなおまえの感性クソキモい
とか
後ろから自転車に乗った大学生がびゅんと横切って行って、ふたりの会話にスラッシュをつけた
とか、うまいなあと感心します。自分が言った言葉にしたいくらいに。
笑ったのは、進学校に通う女子高生7人グループが、グループの仲間を漢数字で呼んでるところです。
六が飼い猫連れて行きたいとか言っててー
とか
ニの家でオッケー出たって!
とか、普通、仲間を「六」や「二」などの数字で呼ばないと思いますが、名前に漢数字がついてたらあり得なくはないかと思ったり。
仲間内でないクラスメイトを、「堂前さん」と名前で書いてるのも面白かったです。
ただ、男子高校生が、仲間をABCと表記するのは、何も掛かっていないどころか、漢数字ネタの使いまわしの感じがありました。
最後にタイトル「ビューティフルからビューティフルへ」の意味について。
選評で町田康さんが、
極度の自己否定から極度の自己肯定に反転させ、その両極を繋げることによって、束の間、魂を生き延びさせる、その方法を描いた小説
(中略)両極を繋げるのはビューティフルという言葉
と書いていますが、私には理解できませんでした。
作中で男子高校生が、
こうであってほしいっていう理想はやっぱりさ、はじめとおわりを無理やり湾曲させるのでもいいから、ビューティフルからビューティフルへってことなんやろな。
と書いています。女子高生2人も、「ビューティフルからビューティフルへ」と、書いています。
疑問に思ったのが、お題が「ビューティフル」なのに、3人とも「ビューティフルからビューティフルへ」と書いているのはなぜだろう、ということです。
ことばぁが、最後はこれで締めろって言った言葉なんやったっけ、ああ、そうそう、ビューティフル。
と男子高校生が書いてます。締めの言葉は「ビューティフルからビューティフルへ」ではありません。
それなのに、3人とも「ビューティフルからビューティフルへ」で締めています。
これはどういうことなのでしょうか。
「ダーティーからビューティフルへ」「アグリーからビューティフルへ」ではいけないのでしょうか。
わからない部分でした。面白かった。