敵と見なす勇気
ジャクソンは、アフリカのどこかの国と日本のハーフで、ゲイです。
日本で言うところの、マイノリティの中のマイノリティ。
ジャクソンに似ている人間が、他に3人集まります。
4人が集まった場所で、4人の心情も描かれるので、これは誰の心情だろうかと、戸惑う箇所もあります。
三人称多視点(神視点)の小説では、客観的に出来事を描写するので、各人物の心情は描けないと、創作の本で読んだことがあります。
本作においてはお構いなしです。
むしろ、三人称小説で各人物の心情を描き分けても、読者にわかればよいと気づきました。
4人の行動でしか心情が推測できないより、4人の視点がわかりにくくても4人の心情を描かれていた方が、伝わります。
4人は、シャツに埋め込まれたQRコードをきっかけに、集まります。
QRコードを開くと、4人に似た黒人が、性的なプレイを受けてる動画が流れます。
動画に写ってる人間は誰なのか、誰にするのか。
似ている4人は、お互い入れ替わることで、今までの被害に対する復讐をします。
復讐について、
一度でも親切にしてくれた人のことをはっきり敵と見なす勇気がジャクソンにはなかった。
当の本人が復讐できなくても、似ている別人なら復讐は可能です。
選評で角田光代さんは、
この小説を推したかったのは、個人と集団というテーマと、書き手が真摯に格闘しているように思えたからだ。他者を、個人として扱えば「はっきり敵と見なす勇気」が持てず、でも集団として見なせば容易に憎め、蔑めるし、殺すこともできる。
と書いてます。
確かに、個人と集団について書いているようには思えます。
ですが、ジャクソンが「はっきり敵と見なす勇気」が持てなかったのは、個人だからではなく、「一度でも親切にしてくれた相手」だからでしょう。
4人の集団として復讐を想定したとき、ジャクソンは、
ゴーサインが出ても、(中略)真っ向から詰め寄ることも(中略)何かを問いただすことも、まして姿を認識される前に後ろから危害を加えることもできずに、逃げていたかもしれない。
と、振り返っています。
なにもなかった自分を迷いなく認めてくれた相手でなければ、(中略)殺すことだって、直接になにか言うことだって、できたかもしれない。
他の3人が、ジャクソンの代わりに復讐をすることになったら、ジャクソンは、集団として復讐の相手を見なせず、個人として抵抗した気がします。
「自分を迷いなく認めてくれ」、「一度でも親切にしてくれた」相手だからです。
「集団として見なせば容易に憎め、蔑めるし、殺すこともできる」のは、誰かによって直接されるのではなく、誰がやってるかわからない状況で、間接的にされる行為だと思いました。
作中で例えるなら、同じような人間が多数いる空間で、誰が操ってるかわからないワイヤーによって、人が殺されかけてたら、その人に好意がない限り、助けられないでしょう。
集団であれば、敵と見なし(仲間と見なさず)、殺すこと(傍観すること)もできてしまいます。