京都に帰りたい
主人公は、英語圏で生まれ育ちました。
きみが初めて京都を訪れたのは十六歳のときだ。この時点できみはすでに二年間、日本語を学習している。
本作は、「きみ」という二人称の語りです。
主人公は、
- 16歳で初京都
- 大学卒業後、英語を教えるため京都へ
京都では、主人公の容姿を見た人々が、英語で話しかけてきます。
勉強に励んでいても、この近くに居を構えても、きみは毎日海外からこの街を訪れてくる大勢の観光客とはまったく同じ目で見られていて、溶け込むことはまだ程遠いということだ。
日本が堪能でも、容姿で外国人と判断されたら、英語で話しかけられます。
日本人の親切心によるものでしょう。
日本人がアメリカに行ったとき、見知らぬアメリカ人から、親切心から日本語で声を掛けられることは、まずない気がします。
日本において、英語の重要性は高いです。
きみは常に一個人ではなく、英語なり海外なり漠然とした概念の代表とされてしまう。
日本にいる外国人は、ガイジンとして一括りにされます。
主人公は、同じく英語指導をする外国人たちと交流します。
会話は英語で行われます。職場の愚痴や、帰国後の予定です。
主人公は、谷崎潤一郎を読むようになります。
谷崎が住んでいた家の前を訪れます。
誰もいないと思っていた家に、人がいました。
留学生ですか、と尋ねられた主人公は、
留学生ではなくて、ただ谷崎を読んでいる者です。
と答えます。嬉しそうに微笑んだ相手は、大学の教授でした。
教授に招かれて、谷崎の家に入ります。
教授から、芦屋にある谷崎記念館でのツアーに誘われます。
主人公は、大学院に入学し、その教授のゼミで谷崎を研究するようになります。
ゼミに入ったとき、教員になるどころか、博士課程に進学するつもりもなかった。きみはただ、読書に専念する時間を確保したかったし、先生なら話が合いそうだと思っていた。
大学の教員になって、東京に住んでいる主人公は、ふと思います。
京都に帰りたい。
(中略)京都はきみにとって故郷でもなければ、現在の居住地でもない。かつて、一時的に住んでいた街に過ぎない。
それでも、主人公は「帰りたい」以外の表現を見つけることができません。
文法的に間違っていても、主人公の「帰りたい」心情は確かです。
主人公にとって、京都は原点であり、主人公が自分の力で手に入れた故郷でした。
- 高校生のときに京都へ旅行しなければ、京都で英語を教えなかった
- 京都で英語を教えなければ、谷崎潤一郎を読まなかった
- 谷崎を読まなければ、谷崎が住んでいた家を訪れなかった
- 谷崎の家を訪れなければ、教授に出会うことができず、大学院で谷崎を研究しなかった
- 教授のもとで谷崎を研究しなければ、大学教員をしていなかった
上記は仮定ですが、「京都に帰りたい」と思う主人公の心情はわかります。
では、私が「帰りたい」と思う場所はどこだろう。
今は、今住んでいる場所です。
生まれ故郷ではありませんが、主人公と同じ、自分で手に入れた場所です。
主人公は、鴨川を走りながら言い聞かせます。
早まるな。
ペースを維持すること。
目の前にある百メートルに集中すること。
「鴨川ランナー」である主人公のつぶやきが、私にも響きます。