与えられた役割を演じる
異言というタイトル。聞きなれない言葉です。
辞書には、
「その人の態度や事実と、言うこととが違うこと」
とあります。
主人公は、幼少のときに行った教会で、異言を目にします。
洗礼を受けた少女が、今までの態度と別人のように喋りだしたのです。
異言を喋りだしたとき、本当に聖なる力を感じていたのか。そんな力を信じたくて、その渇望が自ずと彼女の口から溢れ出たのか。それとも彼女はただその場で要求された演出を果たしたのか。
主人公には見分けがつきませんでした。
アメリカで生まれ育った主人公は、福井県に住んでいます。
英会話学校で働いていましたが、学校が倒産します。
かつての同僚の紹介で、主人公は教会の牧師の仕事をすることになります。
同僚は、挙式で牧師をする自分たちを「小道具」と言います。
チャペルもそうだし、賛美歌もそうで、俺とおまえも同じ範疇に入っている。オーディエンスは、おまえのことを別に個人として見てるわけじゃない。単なる表象だ。そこにいるだけで、楽しい楽しい別世界にいるような気持ちにさせる。
単なる表象。チャペルも賛美歌もカタコトの牧師も、別世界です。
若干稚拙な発音の方が好印象を与える
外国人の牧師さんの発音が、日本人と同じである必要はありません。
同僚は言います。
日本語がよくできたところで別にいいことがあるわけでもないさ。無理しなくも、俺たちには俺たちなりの役割がある
カタコトの牧師という役割です。その役割を演じればいいのです。
その役割は、誰かに代えられる可能性があります。
英会話学校もカタコトの牧師も、異言した少女も代えが効きます。
与えられた役割を演じてもらえばいいからです。
では、代わりが効かないものはあるのでしょうか。
例えば、主人公が付き合っている女性。
彼女は、主人公の英会話学校の生徒の一人でした。
英会話学校が倒産し、行き場を失った主人公を助けてくれました。
彼女がいなければ、主人公は福井を出ていたかもしれません。
助け合いですね
と、彼女は主人公を家に住まわせます。
彼女にとっても、主人公の代わりはいませんでした。
愛情というより、助け合いです。
英語を学びたい彼女にとって、主人公との生活は自宅でホームステイしているようなものです。
彼女は、日本語を話そうとする主人公を止めます。
わたしは、英語を喋るあなたが好きです。かっこいいです
主人公は日本語を話すことができません。
本当に、主人公と彼女はお互いに代えが効かない存在かいうと、そうではありません。
主人公は牧師の仕事で金銭的余裕が出て、彼女の家を出て行くかもしれません。
彼女に英語を学ぶ必要がなくなって、主人公に家を出て行くよう言うかもしれません。
自分にとっての誰かは、代わりが効きます。
逆に言えば、代わりが効かないのは、自分にとっての自分だけです。
主人公の同僚は、「日本語がよくできたところで別にいいことがあるわけでもない」と言いますが、日本語がよくできなければこの小説は書けません。
著者は、日本語ができて良かったと思っているかわかりませんが、私はこの作品を読めて良かったです。