どこか遠くに行きたい
28歳の主人公は、メッセンジャーとして働いています。
メッセンジャーとは、都心を自転車で走り回り、配達物を届る仕事です。
主人公は、一日の走行距離が100キロを超える日が続き、転倒してしまいます。
この仕事は食わないと死ぬ。二回目はない。
事故で働けなくなっても、会社は保障してくれません。自己責任になってしまいます。
主人公は今まで、
- 自衛隊
- 不動産会社
- コンビニ
などで働いてきました。いずれも、怒りを暴発させてしまい、辞めています。
これまで働いてきたところで耐えきったことなど一度としてなかった。
メッセンジャーのような体力を使う仕事はいつまでもできないと思いつつも、主人公は次の仕事を見つけられずにいます。
同棲している女性が妊娠し、主人公はハローワークに行きます。
しかし、メッセンジャーと同じような給料に加え、福利厚生が充実している会社はありませんでした。
主人公は、所長に嫌味を言ってしまい、メッセンジャーの仕事を干されていきます。
物語の後半、主人公は刑務所にいます。暴行事件を起こしてしまったのでした。
末路といえばホームレスになるか逮捕されるかくらいのもので、自分もそういう見方をしていた。要するに逮捕されたりホームレスになったりした先のストーリーが彼らには一切ないだろう、という見方だ。
この作品は、逮捕されて終わりではなく、刑務所での生活も描かれます。
そして、主人公はここでも耐えきることができません。
主人公は、
遠くに行きたかった。
と、繰り返します。
遠くとは、一体どこなんでしょうか。
遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。
遠くとは、具体的な場所ではなく、繰り返されている日常からの脱却でした。
しかし、刑務所ほど規則正しく繰り返される日常はありません。
遠くへ行きたいと思う主人公の心情に、私は同感しました。
耐えきることのできない不器用な主人公を、私は悪く思うことができませんでした。
主人公は自分のために行動しているのですが、客観的に見ると、被害を受けた他人のために行動しています。
怒りの矛先は、
- 同僚を叱責した客
- 出所できそうな人を挑発する同室の人間
などです。主人公自身は直接以外を受けていないのに、耐えきることができません。
その結果、割を食ってしまうのが主人公です。
刑務所生活を続けていると、遠くへ行きたいという心情に変化が生じます。
自転車を駆って走り回って他愛のない会話を(中略)し、泥のように眠った日々は特別な日ではなかったけれども、同じような日々と断じてはいたけれども、ちょっとずつ違っていた。パンクすることもあったし、落車して自転車をぶっ壊すこともあった。
繰り返しから逃れるために遠くに行きたいと思っていた主人公が、少しは違う日々だったことを悟っています。
読後感が良かったです。
毎日同じではないのだから今の日常を楽しもう、とまで前向きにはなれませんでしたが、会社と自宅の往復の日常でも、会社での出来事は毎日違っていると思えるくらいには、晴れやかな気分になれました。
最後に、なぜタイトルが「ブラックボックス」なのか、考えました。
オフィスや倉庫、夜の生活の営み、どれもこれもが明け透けに見えているようでいて見えない。張りぼての向こう側に広がっているかもしれない実相に触れることはできない。
という風景や、
各人の内に見えなさがその割っているように思える。さっき見た、雨に打たれる夜の街並みと同じだ。
という人間関係は、ブラックボックスのわかりやすい象徴です。
それに加え、「遠くへ行きたい」と主人公が願っていた毎日の生活も、「同じような生活でもちょっとずつ違っていてわからない」という意味で、ブラックボックスを象徴しているように思いました。
本当にうまい作品です。読めて良かった。
調べた言葉
- ケイデンス:自動車のペダルを回す速さ
- 阿(おもね)る:人の機嫌をとって気に入られようとする
- 抱懐:ある考えを心の中に持つこと
- 義憤:正義に外れたことに対するいきどおり