おめでたい語り手
主人公は、歴史研究部に所属する高校2年生です。
主人公が一人で課外研究をしていると、大阪弁で話す中年の男と出会います。
大阪弁の男は胡散臭そうなのですが、歴史に詳しく、博識です。
男は、まだ世に出ていない幻の書物を探していました。
その書物の名前が、「皆のあらばしり」です。
世に出ていない書物なので、発見されれば希少価値があります。
主人公は、男に協力します。主人公は、年長者である男に対し、ため口で話します。
ぼくが今まで出会った中で一番すごい人間だ。誰も比べものにならないくらい、断トツで。(中略)他のこと全部がどうでもよくなるくらい、この世界がおもしろく見えてきたんだ。だから、あんたにどうしても認められたいと思った。
主人公は、男に認められたいという動機から、「皆のあらばしり」の調査に協力します。
では、男はなぜ「皆のあらばしり」を求めるのでしょうか。
書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。(中略)似たり寄ったりの軟弱な花が、自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながら、いとも簡単に枯れて種も残さんのや。(中略)そんな態度で書かれとる時点であかんこともわからず、そんな態度を隠そうっちゅう頭もないわけや。そんな杜撰な自意識とは対極にある『皆のあらばしり』みたいなほんまもんを引っ張り出すんがわしの仕事やねん
それを聞いた主人公も、その通りだと納得します。
ここに、作者乗代さんの文学観が現れているように感じます。
なぜなら、この作品のタイトルが「皆のあらばしり」だからです。
書いてすぐに読んでもらえなくても、いつか引っ張り出される本物の書物という意味の「皆のあらばしり」をタイトルにしているからです。
本作が「ほんまもん」かというと、「おめでたい語り手」という新しさを生み出そうとした点で、「ほんまもん」だと思いました。
「信頼できない語り手」は腐るほどあれ、「おめでたい語り手」というのは滅多にお目にかかれるものではない。
何がおめでたいかというと、男をだましたつもりの主人公(語り手)が、男の掌の上で踊らされていたからです。主人公は踊らされていたことに気づきません。
主人公は、「皆のあらばしり」の調査で、男に嘘をついていました。男に認められたかったからです。主人公にとって、男はよほど魅力的でした。
書物を手に入れるだけではなく、それ以上のことをしないと、男には認めてもらえないと主人公は思っていました。
男は、主人公の嘘に気づけなかったのですが、最終的に「皆のあらばしり」を手に入れています。男の目的は達せられています。
それでいて、男は、主人公のことを認めているように感じます。
だからでしょう。だまし―だまされの関係性なのに、読後感は爽やかです。
男に認められたであろう主人公を、私は「おめでたい語り手」とは思いませんでした。
本作は、古い書物を探し求めるので、書物にまつわる歴史の話が多く出てきます。
私は、昔の話を難しい言葉で書かれている箇所などを読むのが億劫になっていました。
そう思っていると、男の言葉が出てきました。
この世はな、知らんことには、自分が知らんという理由だけで興味を持たれへん、それを開き直るような間抜けで埋め尽くされとんねん。せやから、自分の知っとる過去しか知らずに死んでいきよる。(中略)今に通用する身の振り方だけを考えて、それを賢いと合点して生きとんねん。
私は、知らないことは知らなくてもいいと開き直っている側の人間でした。
私は、今に通用する身の振り方ができていれば賢いと合点する側の人間でした。