不穏な語り手
「信頼できない語り手」という言葉があります。
主人公の語りが信頼できなく(嘘のようで)、読み手を惑わすことです。
『破局』の語りは、信頼できないというより、読んでいると不穏を感じます。
主人公は、公務員試験を控えている大学4年生です。
高校まではラグビー部に所属しており、今はコーチとして高校で教えています。
大学の同級生からは優秀だと思われ、ラグビー部の顧問からは信頼を得ています。
普通に付き合うなら、特段、不穏の要素はありません。
交際相手も途切れずに、別れては他の女性と付き合っています。
では、何が不穏なのか。
- 人との距離感
- 見られること
- 見ること
です。
1.人との距離感について、知れない外国人の男に道を聞かれた主人公は、
私は男の左腕に触れながら喋っていたが、汗をかいていたから、控えたほうがよかった。
汗をかいていなければ、知らない男の腕を触れてもいいと言わんばかりです。
2.見られることについて、主人公は、見知らぬ他者に見られてばかりです。
子供はなぜか、最初からずっと私の目を見ていた。
カラスは道に落ちた何かの袋をつついていたが、それをやめ、私の顔を見た。
端正な顔立ちの若い男がふたり立っていて、なぜか私を監視するようにずっと見ていた。
そんなに見られていると感じるでしょうか。
3.見ることについて、主人公がテレビを見ていると、
強制わいせつの疑いで、巡査部長の男が逮捕されていた。
下着を盗んだとして、巡査部長の男が逮捕されていた。
女性用トイレに小型カメラを仕掛けたとして、巡査部長の男が逮捕されていた。
と、様々なところで巡査部長が逮捕されています。
そんなに巡査部長が捕まるでしょうか。
主人公の周りの景色はどうやら歪んでいるようです。
景色は歪んでも、人間の三大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)には忠実です。
例えば性欲について、
私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。セックスほど気持ちのいいことは知らない。セックスの機会を、私がみすみす逃したことはないだろう。
うんざりするほど、セックスという言葉を発します。
気掛かりなことが残ったままなのも、不穏です。
例えば、
- 公務員試験の結果(もはや関係ないのかもしれませんが)
- カフェラテを飲むと時々気分が悪くなる女の子が、後半カフェラテを飲んでどうなったのか(具合は悪くなっていないのでギャンブルに勝ったのでしょうが)
主人公の語りに、はぐらかされて終わります。
結局何だったんだろうと、煙に巻かれた印象です。
欲に忠実な人間のはかなさを感じました。
便器のふたを上げたままトイレを出る人への怒りは、前作『改良』にも書かれていました。
『改良』が良かっただけに、同じネタを使っているのが残念でした。
調べた言葉
- 剣呑:あぶないさま
第163回芥川賞の候補作、受賞予想はこちらです。
芥川賞受賞後に再読し、選評を読んだ感想はこちらです。