鬱マンガで終わらない
主要な登場人物が次々死ぬことから、鬱マンガとして有名です。
それに乗っかり、胸糞悪さを感じたり、鬱々したりだけでは、もったいないと思いました。
15人の少年少女は、知らない大人に誘われるがまま、退屈しのぎにゲームに参加します。
地球を襲う、未知の巨大ロボットと戦うというゲームです。
ロボットのコックピット内に入った少年少女は、相手のロボットを倒す使命を与えられます。
ただのゲームではなく、
- 相手のロボットに負けたら、現実の地球が滅亡
- 相手のロボットに勝ったら、現実の操縦士が死亡
どっちにしろバットエンドの展開です。
ロボットの操縦は、15人の少年少女の中から順番に回ってきます。操縦士に選ばれた瞬間、勝っても負けても死が確定します。
相手を倒しても、自分が死ぬのです。
すでにゲームに参加する契約をした以上、死からは逃れられません。
なんて不条理なと思う一方で、
私たちの人生も死が決まっていると思いました。
人生というゲームに否応なく参加させられた私たちも、いつか死ぬとわかっていながら、日々の生活を送っています。
当然、『ぼくらの』の少年少女とは違います。
私たちが死ぬのは100歳くらいで、少年少女は13歳くらいで死にます。
さらに私たちは、いつか死ぬことなど思いもせず日々を過ごしています。
たまに死を思うことはあっても、常に死の恐怖に付きまとわれている人は、ほとんどいないでしょう。
ゲームに参加した少年少女には、死の恐怖が常に付きまといます。
『ぼくらの』がただの鬱マンガでないと思う要因は、敵のロボットの正体です。
地球を蹂躙しようとする敵の巨大ロボット、そのコックピットには、人間がいました。
敵のロボットにも操縦士がいて、彼らはパラレルワールド上の地球人でした。
それを知ってもなお、パラレルワールド上の地球の人間を敵とみなし、倒すしかない。
これは一体何なんでしょう。
私が思ったのは、可能性を消去しているさまを、目に見える形で表していることです。
例えば、大学卒業後の進路について、
- サラリーマン
- フリーター
- 無職
- 大学院進学
があったとします。
もしサラリーマンで働いている人がいたら、フリーターや無職、大学院進学の選択を消去しています。
サラリーマンの自分が、
- フリーターの自分
- 無職の自分
- 大学院進学した自分
を殺しています。
『ぼくらの』の登場人物たちは、他にあり得る可能性だった自分を倒しています。
今の私は、フリーターや無職や大学院生であり得た自分を切り捨てて、社会人として生きています。
私も、数ある選択肢を、一つずつ殺しながら生きています。
そこに物理的な痛みは伴わないですが、可能性を減らしながら生きていると、実感しました。
だからこそ、始めるときよりも、辞めるときの方が辛いのかもしれません。