犯人「ともだち」の原動力
主人公が小学生のときに書いた「よげんの書」どおりに、なぜか日本は進んでいきます。
行き着く先は、世界滅亡。
世界滅亡の危機の元凶である犯人「ともだち」の原動力は、嫉妬と復讐でした。
「ともだち」は2人います。
動機をそれぞれ、
- 1人目:小学校のクラスのリーダー(ケンヂ)への嫉妬
- 2人目:いじめられたことへの復讐
とします。
本人の口で語られてるわけではないので、想定です。
嫉妬と復讐、どちらも個人的な因縁です。
個人的な因縁を世界の問題に持ち込むなよ、と思います。
ただ、「ともだち」1人目の動機は、わからなくはありません。
クラスで注目を浴びたい、注目を浴びている人から認められたいという感情は、理解できます。
嫉妬の感情を原動力とし、自ら成長するのは、目的としては間違ってはいないでしょう(手段は間違っていますが)。
それに比べ、「ともだち」2人目の動機(=復讐)は、おかしいです。
いじめへの復讐から人類滅亡に発展させるのは、行き過ぎています。
復讐するなら
- いじめた相手
- いじめに関わった人間
- いじめを作り出したシステムやそれに関わった人間
であって、関係ない一般人まで巻き込んだら、復讐は全体の悪でしかありません。
では、悪を作り出した、いじめた側に非はないのでしょうか。
ないとは言えません。いじめた側に、クラスのリーダー(ケンヂ)は関わっています。
いじめの原因をつくったのは主人公のケンヂです。
「ともだち」2人目がいじめられたきっかけは、駄菓子屋で商品万引きの罪をかぶったことです。
万引きの商品は、当たりの券と引き換えにもらえるバッチです。
いじめの流れは、
- 「ともだち」2人目が駄菓子屋に行くも、店員がいない
- 当たりの券を置いて、バッチを持っていく
- 当たりの券を持っていないケンヂが、バッチを盗む
- 駄菓子屋の店員がバッチを盗まれたことに気づく
- 駄菓子屋の店員が、「ともだち」2人目に当たりをつけて、犯人扱いする
- それを見ていた同級生たちが、便乗して非難する(ケンヂは自分が盗んだと名乗り出ずに、その場から逃げる)
- 「ともだち」2人目がいじめられる(死んだものとして扱われる)
問題なのは、
- 「ともだち」2人目:駄菓子屋店員がいないのに、勝手に商品を交換した
- 駄菓子屋店員:盗まれた現場を見ていないのに、犯人扱いする
- 同級生たち:盗んだ現場を見ていないのに、駄菓子屋店員の言葉を鵜呑みにして非難する
- ケンヂ:盗んだ犯人なのに、名乗り出ずに、その場から逃げ出す
復讐の矛先が、駄菓子屋店員やいじめた人間、名乗り出ないケンヂに向かえばいいのですが、人類滅亡に向かっていきます。
それにより、「ともだち」2人目が、一手に悪を請け負います。
ケンヂは後になって、
もしもあの時、俺もああしてあやまっていたら……
と、後悔しますが、時すでに遅しです。
もちろん、万引きの一件がいじめにつながり、人類滅亡の危機への引き金になったとして、ケンヂや駄菓子屋店員、同級生たちが悪だとは思えません。
「ともだち」2人目の手段が、悪です。
それでもやはり、「ともだち」2人目だけに責任を負わせるのは酷だとも思います。
そして矛先は読者である私に向かいます。
――お前ならどうするのか、と。
私は、批判される人を助けられるとは思いません。いじめられている人を救えるなんて思いません。
ですが少なくても、自分が見てもいなく知りもしないのに、人を批判したり批判する多数側についたりは、したくないと思いました。