選評を読んで
芥川賞の選評では、『推し、燃ゆ』の文章力への評価が高いです。
川上弘美さんは、
必要にして充分な描写の力
松浦寿輝さんは、
- リズム感の良い文章
- 的確な筆遣い
小川洋子さんは、
推しとの関係が単なる空想の世界に留まるのではなく、肉体の痛みとともに描かれている
山田詠美さんは、
確かな文学体験に裏打ちされた文章は、若い書き手にありがちな、雰囲気だけで誤魔化すところがみじんもない
平野啓一郎さんは、
文体は既に熟達しており、年齢的にも目を見張る才能
と、高く評価されています。
一方、内容について、平野啓一郎さんは、
「推し」を使った現代的な更新は極めて巧みだが、それは、うまく書けて当然なのではないか
山田詠美さんは、
次は、大人同士の話が読みたいです
吉田修一さんは、
- 目新しさを感じないまま読み終えてしまった
- 文学の新人賞界隈でよく見かける少女
と、題材への評価は高くないようです。
私は、『推し、燃ゆ』を読むのは三度目ですが、「かわいそうな私を構って」感がつきまとい、苦手でした。
芥川賞受賞前に読んだときの感想はこちらです。
主人公は、家族にも学校にもバイト先になじめず、生きている意味は推しを推すことだけと自負しています。
唯一の生きる意味である推しが、炎上し、芸能界を引退したことで、主人公はどうしようもなくなります。
哀れですが、「かわいそうな私」に酔っている感じが伝わるのです。
一人称「あたし」で語られているからかもしれません。「こんなにつらい体験しているんだよ」と、一人語りされているようなのです。
読んでいるこちらとしては、「大変でしたね、胸中お察しいたします」とは思うのですが、それ以上の何かはありません。
では、それ以上の何か(期待しているもの)とは何でしょう。
すべてを失ってからの、もがきです。
推しが芸能界を引退し、推しの生活を垣間見て、もう届かないところに推しは行ってしまったと、主人公は絶望します。ここでも「かわいそうな私」を見せられている感じです。
この「かわいそうな私」が、もがいていく姿を見たいのに、家で綿棒を自らぶちまけて、自ら拾うだけでは、もがいているとは言えないでしょう。結局「かわいそうな私」で終わっているからです。
ですが、すべてを失ってからもがく主人公を、純文学作品に求めるのは間違っているのかもしれません。
奥泉光さんは、
ひとりの人間の生の形を描ききった
堀江敏幸さんは、
- 綿棒をぶちまけ、それを拾いながら四つん這いで支えて先を生きようと決意する場面が鮮烈
- 鮮やかに決まりすぎていることに対する書き手のうしろめたさまで拾い上げたくなるような、得がたい結び
と評価されていますし、終わり方を否定している選考委員はいませんでした。
結果、私の中では、「文学的には評価されたけど、個人的には好きではない作品」という位置づけに決まりました。
なぜ、世間で評価されている作品なのに好きになれないのかを、違う観点から考えると、嫉妬かもしれません。
何に対する嫉妬かというと、
- 自分より若い人が芥川賞を取ったこと
ではなく、
- 自らの経験と思しき内容で、社会人経験のない作家が芥川賞を取ったこと
への嫉妬です。
社会人経験がなくても小説は書けるでしょう。
ただ、社会人経験がないことに、どこか甘さを感じるのです。
ですがそれは、宇佐見さんが社会人経験のないことを、私が知った上で読んでいるからだと思います。
「社会人経験のない作家の小説は甘い」という先入観がそうさせています。実際そんなことないのに、です。
なぜそんな先入観があるかというと、情けないですが、嫉妬によるものだと思います。
なので、「文章がうまい」「若くて才能がある」という事実より、
「自らの経験と思しき学生を主人公とした小説で受賞して」という思い込みに目が向いてしまっているのでしょう。