これからどうするかを考え実行する
本書は、青年と先生の対話形式です。
前作『嫌われる勇気』の続篇です(『嫌われる勇気』を読んでからの方が理解しやすいですが、本書から読んでも問題ありません)。
『嫌われる勇気』の感想はこちらです。
学校教員をしている青年は、アドラー心理学にもとづく教育を実践しましたが、うまくいきませんでした。
青年は、先生を訪ね、アドラー心理学が現実社会では役に立たないと主張します。
アドラー心理学の「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針が、教育現場では全く役に立たなかったと、青年は言います。
ほめることもせず、叱ることもしない教育。自主性の名の下に、生徒たちを野放しにする教育。そんなものは教育者としての職務を放棄しているにすぎない!
青年の主張に対し、先生は言います。
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。
介入とは、あれこれ口出しすることでしょう。
では、「自立」とは何でしょうか。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
自立(=自分の価値を自らが決定)できるように、「援助」するのが教育ということです。
では、どのように援助するのか。先生は言います。
まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。
確かに、何を言ったかよりも誰が言ったかの方が、重要な気がします。
教える側に立っていた青年は、教えられる側である生徒のことを尊敬していませんでした。生徒との良好な関係を築けていないので、青年が正しい言葉をいくらかけても生徒には響かないのでしょう。
尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである
青年は、生徒を気づかっていませんでした。
生徒を尊敬できず、気づかえなかった青年はどうすればいいのでしょうか。
先生は言います。
われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。
(中略)
「悪いあの人」の話を聞き、「かわいそうなわたし」の話を聞き、わたしが「それはつらかったね」とか「あなたはなにも悪くないよ」と同調すれば、ひとときの癒やしは得られるでしょう。
(中略)
でも、それで明日からの毎日がどう変わるのか?
ひとときの癒しでは何も変わらないのでしょう。これからどうするかを考え実行しなければ、何も変わらないでしょう。
では、青年はこれからどうすればいいのか。先生は言います。
子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。
子どもたちへの教育に限ったことではないと思いました。
私は、仕事で人に教えることがありますが、相手に「介入」しすぎていたかもしれません。作業工程を事細かく伝え、進捗を確認しすぎていた気がします。
では、私はこれからどうするか。
もっと遠くから眺めるような視線で、「援助」していこうと思いました。