オブセッションでは受賞できない
感想①はこちらです。
主人公のマツナミは、小説を書き、読み、合評するカルチャーセンターに通っています。
生徒たちは、受賞に向け、作品を書いています。
主人公は、回転寿司店の中で始まって終わる小説を書きました。
主人公の書いた小説に対し、
オブセッションが気になりました
と、ニシハラという生徒が、コメントします。
主人公は、オブセッション(=強迫観念)について、繰り返し考えます。
ニシハラとの脳内での対話で、ニシハラに言われます。
小説が好きということだけで書き続けるのは、おそらくマツナミさんが思い設けているよりもつらいと思いますよ
(中略)オブセッションだけで書ききり、投稿し続けるのは辛い
確かに、回転寿司店の中で始まって終わる作品では、受賞は厳しいでしょう。
受賞が無理なのに、オブセッション(=強迫観念)だけで書き続ける覚悟があるのか、とニシハラは言っているわけです。
それでもこの道しかないからですよ(中略)小説し続けるには
と、脳内での会話は終了します。
この会話は、小説を書いている読者にも刺さります。
なぜ小説を書くのですか。
文芸誌が募集している賞には、毎年2000以上の作品が集まります。受賞できるのは1つか2つ。残りはボツ。それなのに書き続ける。異常なのでしょうか。
小説を書く人はみんな自分が正常だと思っていますよ
(中略)正常だと思っていないとやってられないでしょう? 時間やら費用やら労力やらいろいろなものを犠牲にして書いているんですから
2000以上の応募があるのに受賞できるなんて思えない。とも限りません。
私は昨年、文学賞に応募し、2000作以上のうち、上位30作に残りました。
今年応募したとき、昨年よりも小説の出来が良いと感じたので、受賞できると期待しました。
しかし、受賞どころか、上位30作どころか、一次選考も通過しませんでした。
時間、費用、労力、いろんなものを犠牲にして書いてもボツ。
いろいろなものを犠牲にして書いているという意識が良くないのでしょうか。
ニシハラの書いた『万華鏡』という作品は、カルチャーセンターの先生に、
受賞する可能性もあるっちゃあある
と言われましたが、受賞を逃しました。一次選考で落ちたようです。
主人公は、回転寿司店の中で始まって終わる作品ではない小説で、文学賞を受賞しました。
少なくとも『万華鏡』よりは小説の可能性を感じさせない作品だったから受賞したのだろうことは、自分の中でははっきりとしている。(中略)すでに規範化されていた”青年の悶々とした一面を”うんぬんというようなジャンルの中にうまく落としこんでもらえたからだろう。
と、受賞の理由を分析しています。
”オブセッション”としては、(中略)『万華鏡』の方が強すぎたのだと思う。
主人公の作品に「オブセッションが気になりました」とコメントしたニシハラの『万華鏡』こそが、オブセッションが強すぎたのです。
オブセッションが強すぎた『万華鏡』に対して、評論家の藤田直哉さんは、
少なくとも、受賞作には推さない。(中略)技巧が走り過ぎている。
と言い切っています。
オブセッションの強い『万華鏡』は受賞できませんでしたが、本書には収録されており、評価している作家や編集者の方もいます。
つまり、オブセッションの強い作品は、他の作品で文学賞を受賞し、デビューしてから書けばいいということです。
では、どんな作品だと賞を受賞できるでしょうか。
すでに規範化されたジャンルの中にうまく落としこんでもらえればいいのでしょうか。
わかりません。過去の受賞作を読むしかなさそうです。