文學界と私/作家の節目
本書の「エッセイ特集」では、第一線で作品を書いている作家の、
- デビュー前
- デビュー当時
の話が書かれています。
今や誰もが知る作家にも、苦労していた時代があったとわかります。
中でも、
- 宮本輝さんの「同人誌のころ」
- 吉田修一さんの「山を越える」
- 角田光代さんの「三十年の恐怖」
を興味深く読みました。
宮本輝「同人誌のころ」
宮本さんはデビュー前、同人誌で書いていたそうです。同人誌とは、書く側でお金を集めて製本する雑誌です。
宮本さんが書いていた当時は、日本中で500は同人誌があったらしいです。
町工場の旋盤工や水道工事屋など、本業を持つ同人誌の作家たちは、毎月『文學界』を手に取っていたようです。
なぜなら『文學界』には、「同人雑誌評」という、同人誌で書かれた作品の中からベストファイブを選ぶページがあったからです。「同人雑誌評」に取り上げられた作家が芥川賞を受賞したこともあったそうです。
わたしにとっての『文學界』は、油まみれの旋盤工がこっそりと書店でひらいて立ち読みした「同人雑誌評」の八ページだ。
たったの八ページのなかに、大阪のひとりの表具師の、和歌山の漁師の次男の、尼崎のスナックのママの、夢や落胆をつむいだ八ページなのだ。
今でいうところの、「文學界新人賞」の選考通過作品が掲載されたページでしょうか。
私は過去に2回ほど「文學界新人賞」に応募したことがあります。最終選考の電話がかかってきていないので受賞していないのはわかっていましたが、中間結果を確認するため、発売日に本屋へ行きました。
2次通過、3次通過の作品にも自分の名前がなく、深いため息をついたことを覚えています。一度目は「なんで載ってないの?」という驚きの後に、二度目は「まあそうだよなあ」という半ば諦めとともに、漏れたため息でした。
吉田修一「山を越える」
吉田さんは居候先の友達の家を転々としながら、小説を書いていたそうです。
最終候補になるも落選し、その次も落ちて、三度目で受賞しました。
作家になりたいというより目標はもっと手前で、最終候補になったから取りたい、意地でも取ってやる、と思っていました。
吉田さんは作家になれるとは思っていなかったそうです。
作家になってから芥川賞を取るまでの方が大変だったようで、三作書いても二作はボツになっていたそうです。
芥川賞を取らなくても作家として全く問題ないんだけれども、僕の場合は、目の前にあったので、これを取らないと先に進めない感じがしていました。(中略)賞目当てで書いてどうするんだという人もいると思うけれども、確実にいい小説の書き方、技術を学んだ気がします。候補になって落ちても、選評を読めば自分が書いた小説の伝わり方もわかるし、目標にするのは全く悪いことではないと思いますね。
賞を目指して小説を書くことを、ポジティブにとらえる作家は珍しいです。選評を参考にしていることが見受けられ、真面目で貪欲な方なのだと感じました。
角田光代「三十年の恐怖」
角田さんは新人賞を受賞後、2年経たずして、出版社から「もう書かなくていい」と言われたそうです。
その後、角田さんが別の新人賞を受賞して再デビューを果たしたとき、
書いた小説が何度ボツになろうと何度書きなおしをさせられようと、がんばって書き続けた。
ですが、次第に小説の依頼が減って、バイトしなければ生活できなくなるくらいになります。
そんなときに、角田さんは『文學界』の担当者から手紙をもらいます。
お金が必要なら貸しますと書いてあって、びっくりした。小説というのはどこかたのしんで書くべきではないかというようなことが書かれていた。(中略)その手紙は泣くほどありがたかった。解雇はしない、しないからがんばれと言ってくれているのだと思った。
お金を貸すと申し出る編集者の熱もすごしですし、角田さんでもこういう時期があるのかと思うと、作家でない私も勇気をもらえます。
宮本輝さん、吉田修一さん、角田光代さんのような作家にも下積みがあり、下積み時代にふてくされることなく(ふてくされていたかもしれませんが)、辞めずに書き続けていたことが今につながっていると知りました。月並みですが、私も頑張って生きようと気を引き締めました。