35歳問題と主人公が泣いた理由
宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』で、35歳問題として本作が取り上げられてたので、読みました。
35歳問題は、私にとってタイムリーな話題でした。
35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
「曲った」でなく「曲ってしまった」という表現に、ネガティブな印象を受けます。
あと半分で人生が終わると考えると、ネガティブになるのはわかる気がします。
主人公は、欲しいと思うものを手に入れてきました。
彼はやりがいのある仕事と高い年収と幸せな家庭と若い恋人と頑丈な体と緑色のMGとクラシック・レコードのコレクションを持っていた。これ以上の何を求めればいいのか、彼にはわからなかった。
やりがいのある仕事と高い年収の手に入れ方に、感銘を受けました。
主人公は大学でトップクラスの成績を取りましたが、一流企業には入らず、小さな教材販売会社に就職しました。
主人公の戦略が巧みです。
- セールスマンとして日本中の学校を巡り、現場の教師や生徒が求めている教材を見極めた
- 学校がどれくらいの予算を教材にあてているか調べた
- 新しい教材の分厚い企画書を書き上げ、社長に提出した
何が必要で、そのためにどれくらい金を出せて、自分に何ができるか。
それを実行するために、小さな教材販売会社を選んでるのがすごいです。
新しい試みがくだらない官僚的な会議の連続でつぶされてしまうほどの大会社でもなく、かといって資本に不自由するほど小さな会社でもなかった。また経営陣も若く、十分に意欲的だった。
(中略)彼は30になる前に、実質的には重役の権限を持つようになった。年収は同年代の誰よりも多かった。
こんな見極めができる大学生は、稀でしょう。
仕事ができなかったり、仕事をやりたくなかったりする人ほど、大企業に入って歯車になった方が楽に稼げると思いました。
ある日、妻がアイロンをかけていたとき、不意に主人公は泣いてしまいます。
部屋ではビリー・ジョエルの歌が流れています。
どうして自分が泣いているのか、彼には理解できなかった。泣く理由なんて何ひとつないはずだった。あるいはそれはビリー・ジョエルの唄のせいかもしれなかったし、アイロンの匂いのせいかもしれなかった。
なぜ主人公は泣いてしまったのでしょうか。
- ビリー・ジョエルの唄
- アイロンの匂い
のせいではないと思います。
残り半分を切ってしまった人生に嘆いて泣いたわけではないでしょう(人生が半分終わって嘆くことはあっても、涙を流すような人生には見えません)。
それなら、どうして主人公は泣いてしまったのか。
35歳になった主人公が、手に入れようとしてるものの手に入れてないものが、ヒントになると思いました。
主人公は、やりがいのある仕事、高い年収、幸せな家庭、満足させられる恋人、気に入った車、趣味と、手に入れたいものを手に入れてます。
主人公は、29歳のときに結婚しました。
結婚後、2人分の座席しかない車(MG)を安く譲り受けます。
二人の方は当分のあいだ子供は作るまいと決めていた。二人にとって、人生はまだ始まったばかりに見えたのだ。
「当分のあいだ」子供は作るまいと決めて、約6年経ちます。
「当分のあいだ」ということは、いずれは子供を育てたいと思ったのかもしれません。
それから6年経ちますが、主人公夫婦には、子供はいないようです。
手に入れようと思って手に入れてないものの一つに、子供があると思いました。
それ以外に、主人公が欲しいと思って手に入れてないものは、ないように感じます。
一方、主人公が泣いた直後、妻は、来客用の布団の買い替えを提案します。
彼としては客用の布団なんてどうでもよかったから、君の好きなようにすればいいと答えた。彼女はそれで満足した。
来客用の布団を買い替えるということは、来客の予定があると言えます。
布団ですから、泊まりがけの来客です。
主人公夫婦を手伝うための来客と考えると、妻が妊娠してる可能性はあります。
つわりや出産で助けが必要だから、手伝いに来てもらうために布団を買い替えるとすると、辻褄は合います。
主人公が泣いた理由は、子供が生まれ、今の生活が終わりを迎えることから生じたものになりますが、考えにくさはあります。
とはいえ、「客用の布団なんてどうでもよかった」という考えが、ある種の現実逃避を抱かせてる気が、しなくもありません。
人生の折り返しが過ぎるとき、子供がいないと、自分だけが終わり(死)に向かってるように感じるのかもしれません。
もし子供がいたら、子供の成長が、自分の終わり(死)を紛らわせる効果があるのかもしれません。