言葉は廃墟化する
同時受賞の『ダンス』とは異なり、新潮新人賞っぽい作品だと思いました。
文章が濃密で、簡単には読ませてくれません。
新人賞受賞作でなければ、途中で投げ出してたかもしれません。
私は二度読みました。
金原ひとみさんが選評で、
初読の際はタイトルや建築についての考え方など、観念的な側面が鼻について読みづらく感じたが、(中略)再読では初読の時に感じていた懸念が瑣末なものに感じられ
と書いてます。
初読時より再読の方が理解できましたが、読みづらさはありました。
再読に耐えられた理由は、新人賞候補作だったり、受賞作だったりしたからだと思います。
そうでなければ、「観念的な側面が鼻について読みづらい」作品を読み通すのは難しいでしょう。
小山田浩子さんは選評で、
誰がどういう場所にどういう感じでいるのか読んでいてぴんとこず、特にアクションが起こる場面でなにがどうなっているのかわかりづらい箇所が複数あり
と書いてます。
私も初読のときは、読みづらさやわかりづらさを感じました。再読でずいぶん緩和されました。
大学院生の主人公は、知的です。
東京では、大学でのバイトと、男性向けの性的サービスのバイトをしてました。
東京から奄美に移住した主人公は、ツアーガイドをしています。
中国人観光客をガイドしていると、事件に巻き込まれます。
選評で小山田さんは、
暮らす場所を変えても仕事を変えても驚くような出来事が起こっても揺るがない、とにかく意識の矢印が自分にしか向かない状態であり続けるこの語り手の語りを、私はあまり信頼できなかった。
と書いてます。
「意識の矢印が自分にしか向かない」語り手は、新潮新人賞に限らず、純文学の作品に多い気がします。一人称の作品が多いからかもしれません。
私は、語りを「あまり信頼できない」とは思いませんでしたが、「あなた(主人公)の考えはもういいよ」とは思いました。
頭がいいのはわかったからもういいよ、という感じです。
主人公の大学教授が、主人公に根負けして、
わかったわかった、だから、おれを殺すな
と言います。主人公の思弁に対して、私はそんな気持ちでした。
わかったわかった(本当はわかってないけど)、だからもういいよ。
主人公に弱点がありません。
弱みが見えない主人公を信頼できないとは思いませんが、読んでて好きにはなれませんでした(読者が主人公を好きになる必要はありませんが、読みづらいので、魅力的が登場人物がいると、読み進めやすいと感じました)。
主人公の男子大学院生は、「賭け」に負けたと言います。
賭けとは、男性教授を性的に満足させることです。
それの賭けが、勝つに値するものだとは、私は思いませんでした(主人公にとっては大きな決心だったのかもしれませんが、伝わりませんでした)。
賭けに勝ったら大学の職を得るとか、教授のパートナーになれるとか、そういう具体的な取引が生じる賭けではありません。
単に教授を性的に満足させること。それも教授が望んだことではなく、主人公が一方的に行ったことです。
賭けは、誰かと行われてるわけではなく、自分の中で行われています(選評で「意識の矢印が自分にしか向かない」と言われるのがわかります)。
読者の私としては、賭けになってないと、思いました。
主人公は一人で賭けに負けて、一人で奄美に引っ越し、ツアーガイドの仕事をします。
タイトル「さびしさは一個の廃墟」について。
あるにんげんが、自分に残した印象と、自分がそのにんげんに残した印象が、対称であればいいけど、もしそうでないとしたら、それはさびしい事だと思う。このさびしさは、一個の廃墟のようなものだろう。
私には難解でした。
なぜ、残した印象が対称でないときのさびしさが、一個の廃墟のようなのか。
廃墟とは、磯崎新によれば、みずからのかんぺきの形を、現実としてではなく、見るものの想像のなかだけに結ぶもののことである。
自分に残した印象が、相手に残した印象とは異なるとき、さびしさは生まれ、そのさびしさが一個の廃墟のようなもの、ということでしょうか。
大澤信亮さんは、選評で、
言葉は書かれた途端に廃墟化する。意味がほどけ、まじり、くずれていく
と書いてます。
言葉で書かれた小説も、廃墟化すると言えるでしょう。
「さびしさは一個の廃墟」について、著者(主人公ではなく)は、小説のことを言ってるのかもしれないと、私は拡大解釈しました。
小説の書き手が残す印象を、読み手は対称(書き手と同じよう)につかめません。
読み飛ばしたり誤読したり補完したり、書き手の想像の対称にはなりません。
私の読みも当然、著者の作品の対称として、つかむことはできません。
書き手の残した印象と、私に残した印象は対称的だと思いませんが、著者がすごい作品を書こうとしているのは伝わりました。