「I was born」と「仕事」
理解できない詩が多い中、吉野弘さんの詩は比較的わかりやすいです。
以下の「I was born」は、少年視点の詩です。
僕は<生まれる>ということがまさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was bornなんだね-―
(中略)
正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね
上で「比較的」わかりやすいと書いたのは、わからない詩もあるからです。
意味がわからなくても詩なのですが、私にとっての詩は、意味がわからないと面白みを感じられません。
詩を読んで理解できないことが、ストレスになるからです。
「理解できないけど面白い」と感じられれば、詩への向き合い方は変わってくるのでしょうが、私にとって詩は、意味をつかめないと始まりません。
それに正直、詩の意味を完全に理解できているとは思っていません。
意味がわかると「思える」部分があり、その部分について、自分なりの発見や意見を持てるから、その詩を面白いと感じられます。
意味がわかると思える部分がなければ、文字面をさらって「どういうことだろう」と考え、「わからない、次」で終わってしまいます。
上記で引用した「I was born」に面白みを感じるのは、「この世に生まれたのは生まれさせられたから(であり、生まれた意味はない)」という発見を、この詩で得られたからです。
引用の後には、父親の言葉(カゲロウという虫が2,3日で死に、死んだときに卵が腹にぎっしり詰まっている話)が続くのですが、虫の話以降に、私は感銘を受けませんでした。
生まれることが受身形ということが、少年同様、私にとっても面白い発見だったのです。私は少年と同じ視点です。
ただ、少年は、父親の言葉の後、「虫の一生」と「母の死」をリンクして考えていますが、私は虫と人間の死をリンクさせられませんでした。少年のように成長できませんでした。
以下の「仕事」には、定年で仕事を辞めた元同僚が、主人公の前に現れます。
――驚いたな、仕事をしないと
ああも老け込むかね
別の日、元同僚は小さな町工場の仕事を見つけ、にこにこして現れました。
主人公は考えます。
仕事にありついて若返った彼
あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
ほんとうの彼ではないような気がして。
私なら、元同僚がにこにこして現れたら、定年後の仕事を見つけられて良かったと思うでしょう。
しかし、主人公は違います。
若返ったことで、何かを失っているのではないか、本当の彼ではないのではないかと疑問視します。
その視点が面白いです。
定年後に仕事がなくなった彼がほんとうの彼という視点を面白いと思いつつ、社会からあぶれてげっそりした元同僚が、ほんとうの彼だなんて、思いたくないです。
それに、げっそりした姿が元同僚のほんとうの姿なら、にこにこした仮の姿のままでいてほしいと思ってしまいました。