あの少女と呼ぶ理由
読むのは3回目です。
2021年2月に感想を書いてます。
今回読み返して、読み間違いが見つかりました。
前回の感想では、
回想形式の作品ですが、現在の主人公は、物語に登場しません。
と書いています。
しかし、現在の主人公は、書き手として物語に登場しています。
以下は本文の抜粋です。
夏場のリビングに置かれた灰色の首振り扇風機のぬるい風が、私の心を不思議と慰めてくれるのである。どうも、少女といっしょに集中力を失ってきたらしい。
- 私=現在の主人公
- 少女=過去の主人公
とすると、現在の主人公は、物語に登場しています。
現在の主人公(私)は、夏場のリビングに置かれた灰色の首振り扇風機のある部屋で、過去を回想(執筆)します。
本作は主人公を「少女」と書かれているので、唐突に「私」という文字が現れて驚きました。
初めて読んだときも、2回目に読んだときも、「私」に気付きませんでした。
3回目でやっと気付けました。
読みが甘いと、つくづく思い知らされます。
2年半越しに、自分の感想の内容を訂正するという始末です(原文の感想は訂正しません)。
今回本書を読んでどう思ったかというと、難解さは拭えませんでした。
それに、読んでて疲れました。好きで読んでて疲れるのはよくわかりませんが、実際に疲れたので仕方ありません。
何が疲れるかというと、
- 知識に裏付けされた内容
- 知識に裏付けされた会話
例えば、高校の教師と生徒が、放課後の図書室で「世阿弥の『去来華』」の読書会をすることです。
『去来華』は、高校生の読書会で取り上げる本だろうかと疑問に思ってしまいます。
教師の解説を読んでると、教師がすごいというより、解説を書いてる乗代さんの知識がすごいと思ってしまいます。
とはいえ、本書は唯一無二ですし、似てる作品を思い浮かべられません。
その時点で、デビュー作としてふさわしいと思います。
デビュー作から、乗代さんは、書くことについて書いています。
主人公が過去の読書ノートを引用するとき、一言添えます。
くたびれたキャンパスノートから引き写す形で紹介するが、誤字脱字、字の内側やくぼみを塗りつぶされた子供っぽい跡は、筆者の正当な権利として直してある。
筆者の正当な権利として直すと、わざわざ断りを入れています。
これは最近の作品『それは誠』にも、似たような手法で取り入れられていました。
『それは誠』では(こちらも主人公が出来事を回想して書くという体をとった作品です)、吃音の登場人物の話し言葉をそのまま書いているのではなく、主人公が手を加えている主旨の断りを入れています。
『十七八より』の冒頭は、
過去を振り返る時、自分のことを「あの少女」と呼ぶことになる。叔母はそういう予言を与えた。
で始めています。
自分のことを「あの頃の私」ではなく、「あの少女」と呼ぶことになると、叔母が予言したのはなぜでしょうか。
主人公が「あの少女」と呼ぶと、主人公と距離が生まれます。
過去を振り返るとき、現在の主人公が過去の自分を、別な存在として認識するだろうと、叔母が感じたからだと思います。
「あの少女」と今の自分は全く違う存在。
あの頃の自分を恥じているからなのか、客観視してるからなのかはわかりません。
叔母は主人公と似ているので、叔母が過去の自分自身を「あの少女」と客観視したり、恥じていたりしたのかもしれません。
しかし叔母は、言葉の言い換えに耐えられる人間になりました。叔母は、
私は牧羊犬だろうと狼だろうと構わない。
と言った直後、主人公に対して、
人生を振り返る時、自分のことをあの少女って呼んでる姿が目に浮かぶわ
と言います。
主人公は、言葉の言い換えに耐えられない人間だと予言してるわけです。
なぜ叔母が、主人公は言葉の言い換えに耐えられないと思ったのかは、わかりませんでした。歯ごたえのある作品です。