小説の書き方にも通じる
最近、小説を読めてません。
小説よりも、実用書を読んでます。
本書を手に取ったのは、2023年下半期の芥川賞候補作を読もうと思ってるからです。
本書を読み、小説を読む下地をつけてから、再び小説を読もうとしてます。
『小説の読み方』というタイトルですが、「書き方」にも通じると思いました。それは、
- 予想の裏切り
- 一文における主語と述語の関係
- 身体的表現
の3点です。
まず、1の予想の裏切りについて。
登場した主語に対して、どんな述語が続くのだろうという期待感が持続することが重要であり、しかも、その予測は、適切に裏切られなければならないということだ。
これは書き手に言っているようにも聞こえます。
先が読めるというのは、つまらない小説の典型として語られるが、登場人物の思うことや考えること、更には言うことなすことがいちいち世間並みで、予想通りだと、ああ、やっぱりとがっかりしてしまう。
書き手は、読み手の予想を裏切る必要があるのでしょう。
とはいえ、突飛すぎるものは読者をしらけさせるとも言ってます。
2の一文における主語と述語の関係について。
「浦島太郎は、孤独を好んだ」という一文は、浦島太郎という人物を説明するが、プロットは前進させない。他方、「浦島太郎は海辺を歩いていた」という一文は、具体的な行動によってプロットを前進させるが、浦島太郎がどんな人物かは教えてくれない。
- 浦島太郎は、孤独を好んだ:主語充填型述語
- 浦島太郎は海辺を歩いていた:プロット前進型述語
書き手がプロットを書くときは、プロット前進型述語を積み上げていくのが書きやすいと思いました。
主語充填型述語の「孤独を好んだ」という書くより、「亀をいじめている若者たちを横目に通り過ぎた」と書いた方が、孤独を好んでいる感じが伝わる気がしました。
3の身体的表現について。
登場人物が苦悩している場面で、歯ぎしりしたり、手が震えたり、ヒステリックに拳を握ったり開いたり、といった自分ではコントロールできない反応を丹念に描写していくと、読者は身体的に同化しすぎて、苦しくなってしまうのである。
(中略)登場人物の心情に、心理分析的な言葉だけでなく、身体反応を通じてアプローチしてゆくと、おそらく理性や意識のレベルよりもっと深いところで、その人物に同化していく作用が生じるのだろう。
「悩んでいた」という書くより、「歯ぎしりしていた」と書く方が、深刻さが伝わります。
とはいえ、「歯ぎしりしていた」のを自分自身で気付くことは難しいです。
「歯ぎしりしてたよ」という他者からの指摘を受けてから、悩んでいた内容を書いた方が、自然な気がしました。
ドストエフスキーは身体的反応の描写が多い作家だと、平野さんは言います。
そして、ドストエフスキーの小説が後世に多大な影響を及ぼしているのは、どの作品にもアポリア(解決できない難題)が含まれているからだと言います。
アポリアがなければ、文学にはならないというのが、私の意見である。(中略)文学である必然は、解決できない問題に取り組むことができる、ということにあり、そのアポリアに向かって書き続けることで、言葉は熱を帯びていき、その熱が読者にも伝わっていく。
解決できない問題だからこそ、文学で取り組むことができるわけですね。
小説を書くときには、解決できない問題を発端にするのが良いと思いました。
『罪と罰』を読み直したくなりますし、平野さんの『本心』を読んでみたくなりました。