いっちの1000字読書感想文

平成生まれの30代。小説やビジネス書中心に感想を書いてます。

『猿の戴冠式』小砂川チト(著)の感想【人と猿の交流】(芥川賞候補)

人と猿の交流

主人公は、女子競歩の選手です。

テレビ中継された大会で、失格になります。

失格になった主人公は、バッシングを受けます。

故意による妨害に見えたからです。

主人公は、家に引きこもります。

競歩のコーチも母も、頼りになりません。

コーチからは、他の選手に取って変えられる存在だと、主人公は感じてます。

母からは、隠すべき存在の娘だと、感じてます。

家で偶然見たテレビで、手話をする猿を見ます

主人公が小さいとき、交流のあった、一匹の猿でした。

その猿は昔、主人公と一緒に、言語訓練を受けていました。

言語訓練なので、身体を使ってコミュニケ―ションすると、研究者である母に叱られました。

主人公と猿が身体を使ったコミュニ―ションをしたとき、猿は王冠のジェスチャーをします。

王冠をこの頭に戴いたとき、ヒトからの叱責はすでに、耳にも心にも、まるで届かなくなっている

主人公は長年、王冠を戴くことがありませんでした。

主人公は、その猿のいる動物園へ行きます。

猿は、手話を通じて、意思を伝えることができました。

ですが、猿は自分の意思を隠していました。

この動物園で、この檻のなかで、たんなる展示物として平穏に暮らし、安穏に死んでゆくために。(中略)でもほんとうは、できることをやらずに過ごすしかないこの日々に、(中略)ひどくイラついている

この猿にとって、できることをやらずに過ごすとは、外に出たいという意思を伝えずに、檻のなかで死んでいくことなのでしょう。

猿は主人公と、交流を図ります。

言語をつかった有形の交流ではなく、もっとブヨブヨとした――たとえばみずのはいった袋のようなものをふたつ持ち寄って、黙ってそっと押しつけ合うような、そういう無音の、おだやかな交信のなかで進んでいった

言葉の伝わらない同士、【わたしたち】の交流です。

【わたしたち】はそれぞれに言葉の通じる同族を持っているはずなんだけれど、それであってさえ分り合えなかった、それどころかひどい誤解を受けた、という経験を、いやというほど何べんも重ねてきている

誤解。例えば、主人公が失格になった大会について。

大会で事故が起きたのは、将来有望視されている後輩に、追い抜かされそうなときでした。

嫉妬から彼女の給水を妨害したのだとか、自分の代表入りを悲観したすえに自棄になった愚劣な行為だとか、そういわれ続けるとしだいにそうだったような気がしはじめ、もうなにも確信が持てなくなっていた

主人公は事故をうまく説明できず、ネットのコメントから批判を受けます。

猿は、動物園から脱走します。

猿の脱走にあたり、主人公が、ひと役買ったのかはわかりません。

主人公との交流が、猿に脱走をチャレンジさせた可能性はあります。

主人公は、大会での事故を回想します。

全力を出し切った結果、自分が例外などではないことが――信じてきたほど特別な人間ではないとまざまざ分ってしまうことが、とても、あのとき、こわかった

確かに、自分を普通の人間だと認めてしまうのは、怖いことでしょう。

全力を出した結果、箸にも棒にもかからないなら、あえて全力を出したと自分では認められない程度で試したい、という気持ちはわかります。

全力出してないんだからダメで当然、全力出したら違ってたけどね。という余力。自分への言い訳であり期待。

全力を出してダメだったら、自分に言い訳はできません。自分に期待もできず、立ち直れないかもしれません。

猿は全力で脱走しましたが、捕らえられました。

猿は全力で手話をしましたが、専門家や教授からは、何も言ってないと言われ、それを知った人たちから、笑われました。

猿が捕らえられたとき、主人公の目には、猿が自らの頭に王冠を戴いているのが見えました。

いい子のかんむりは/ヒトにもらうものではなく/そう自分で/自分に/さずけるもの

猿は、自らの頭に「いい子のかんむり」をさずけました。

外の世界に出るという目標を、達成したからでしょう。

猿と同化して王冠を授かった主人公が、自ら王冠をとり、靴紐を結ぶのが、良かったです。

いつか、自分で王冠をさずけられると思えるまで、全力を出し切るようで。