しゃべり続ける二人
「ゴドーを待ちながら」何をするのか。
「~ながら」の後には、言葉が続くと思います。
例えば、
- 電車を待ちながら、スマホを見る
- 上司を待ちながら、部下と雑談する
のように。
「ゴドー」は、何なのか。
人間だとはわかります。
「ゴドー」を待っているのは、二人の人間です。
二人は、一本の木がある道で、ゴドーを待っています。
ゴドーを待ちながら、何をするのか。
一人が、
ゆうべは何をしたんだい、わたしたちは?
と言うと、もう一人は、
ゆうべは、なんとなくしゃべったんだ。もう半世紀以上も前から、そいつが続いてる。
50年以上、じゃべってるというのです。
ゴドーを待ちながら、しゃべり続ける。
もしかしたら、50年以上、ゴドーを待ってるのかもしれません。
二人の前に、男の子がやってきます。
ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって。
作品で描かれるのは、ゴドーを待つ二日間です。描かれてない50年間も同じような日々だと想像します。
二日目も、ゴドーは来ません。
男の子がやってきます。
今夜は来ないけど、明日には来るとのことです。
ゴドーを待つ一人は言います。
それより、あした首をつろう。(中略)ゴドーが来れば別だが。
もう一人は、もし来たら? と聞きます。すると、
わたしたちは救われる
と答えます。
- 明日ゴドーが来るらしい
- ゴドーが来なければ首を吊る
- ゴドーが来たら救われる
ゴドーとはなんなのか。
なぜ、ゴドーが来なければ自殺し、ゴドーが来たら救われるのでしょうか。
巻末の高橋康也さんの解説では、
「ゴドー」を「ゴッド」のもじりと解して、神の死のあとの時代に神もどきを待ち続ける現代人、その寓意的肖像画の画題がここにある――この解釈が抗しがたい誘惑力をもつことは事実だが、同時に、口にするのも気恥しいほどの陳腐なのも確かだろう。
作者のベケットは、ゴドーは誰かと聞かれて、
知っていたら作品の中に書いたでしょう
と答えたそうです。
作者の言葉をそのまま受け取れば、作品の中にゴドーが誰かは書かれていないので、作者もゴドーが誰なのかは、わからない(特定できない)と、考えられます。
ゴドーが誰か決められてないなら、決めるのは読者の自由です(そうでなくても解釈は読者の自由だと思いますが)。
私は、ゴドーについて、他者による死(寿命、病気、殺人)を感じました。
- ゴドーが来なければ自ら死ぬ
- ゴドーが来たら死ぬ
それまで、しゃべり続けるだけ。
生産性のない人生のような気もしますが、人の一生はそんなもんかなとも思います。
ゴドーを待つ道を離れ、別に場所に行った人間には、他の影響が生じています。
- 何者かにぶたれている
- 目が見えなくなっている
- 口がきけなくなっている
これはどういうことなのか。
- ゴドーを待ち続け、同じ場所にいた人間には何も起こらない
- 道を離れた人間には、何かしら負の影響が生じている
じっと機を待てということなのでしょうか。
動くにはリスクが生じることを示してるのでしょうか。
わかりません。
ゴドーを待つ人間が二人で良かったと思います。
二人でいるから、しゃべり続けることができます。
一人でいたら、もっと早く首を吊っていたかもしれません。