死に近づく妻を受け入れる
時代は戦時中、主人公の妻は、若くしてTB(肺結核)にかかります。
高台にある病院に入院しており、医師は、安静が第一だと言います。
安静というのは、身体も、精神も、静けさを保つことです。安静と善き眠り、栄養と清浄なる空気。生物本来の力を高め、TB菌を抑え込むわけですな。
死に近づく妻を目の前に、夫である主人公は、感情的になりません。泣いたり、叫んだりしません。
誰にも見えない場所で、涙を流しているかもしれませんが、そうした描写はありません(誰にも見えない場所ですから、読者に見えないのは当然です)。
だからといって、主人公が冷酷だとは思いません。
なぜなら、ひそやかで、淡々としているように見えても、妻への愛情を確かに感じられるからです。ゆっくりしたペースで一緒に散歩したり、お土産を買ったり、妻が食べたいと言った卵焼きを焼いたりします。
妻の肺に空気を注入する施術の際、主人公は、
幾度も処置台から目を背けようとするのだが、何か見えない力に頭を固定され、一瞬たりとも瞳を逸らすことができない。微動だにできず、呼吸すら殆ど忘れ、脂汗だけが沸々と額に吹き出していった。
妻の痛みが主人公に伝わり、夫婦で痛みを共有しています。
妻から何か訴えているような瞳で見つめられると、
動揺してはいけないと思うのだが、処置台から妻に瞳を覗き込まれ、平静を保てなくなる。再び医師が気胸針を押し込むと、妻は眉間に皺を寄せ、また身体を震わせた。
静謐に描かれているからこそ、読者は、主人公や妻の感情を受け取ることができます。
仮に、医師から「TB(結核)です」と宣告されたとして、夫婦が感情を爆発させ、泣き崩れているとしたら、読者が入る隙はありません。登場人物が感情をさらけ出している分だけ、読者は冷めてしまいます。
その点、この作品はひっそりしています。
物語に大きな波はありませんが、患者は日に日に亡くなっています。
病院内で交流を持った患者に、次いつ会えるかはわかりません。後日、あの患者は死んだという知らせを、人から聞くことが多いです。
妻も例外ではなく、確実に死に近づいています。
死に近づく妻を現実にして、主人公の落ち着きは異様です。友人が死に、幼い患者が死に、身近に死が存在する環境だと、妻だけが助かるとは思えないのかもしれません。
ですが主人公は、諦めたり、なげやりになったりはしていません。
――静かに、現実を受け入れる。
達観しているように見えます。
なぜ、そこまで落ち着いていられるのでしょう。
医師の言うところの「安静」=「身体も、精神も、静けさを保つこと」が、死が当たり前の環境によって、主人公は達している気がします。
調べた言葉
- 咳嗽(がいそう):せき
- 池畔(ちはん):池のほとり
- 言下(げんか):相手の言葉が終わった直後
- 卓行(たくこう):薬などのすぐれた効き目
- 焦土:焼けて跡形もなくなった土地