小説に書かれていない余白を体験
「パーク・ライフ」のタイトルどおり、公園が舞台です。
都会の中心、日比谷公園。
公園内で大事件が起こる、といった話ではありません。
昼間の公園でよく見られる風景を切り取った作品です。
主人公は、バスソープや香水を扱う会社で、広報兼営業をしているサラリーマンです。
日比谷公園にある、特定のベンチで休むことを日課にしています。
主人公がある日、電車内で知らない女性に不意に声を掛けてしまいます。
その女性も日比谷公園に通っていたことがわかります。
主人公は、女性から言われます。
あなた、あのベンチに先客がいると、嫌がらせみたいに何度も何度もその人の前を通って、この前なんか、先に座ってたカップルの前で、わざとらしく携帯なんかかけてたでしょ?
主人公は、女性に見られていたのです。
女性が見ていたのは、公園にいる人間です。
ベンチに座る主人公は、公園の風景を見ているようでしたが……。
風景というものが実は意識的にしか見えないものだということに気づく。波紋の広がる池、苔生した石垣、樹木、花、飛行機雲、それらすべてが視界に入っている状態というのは、実は何も見えておらず、何か一つ、たとえば池に浮かぶ水鳥を見たと意識してはじめて、ほかの一切から切り離された水鳥が、水鳥として現れるのだ。
確かに、目の前の風景は、意識していないと、通り過ぎるばかりで頭に入ってきません。
通勤途中の道端で、ひっそり咲いている小さな花に気づけるのは、決まって心にゆとりがあるときです。普段私は、風景を意識していないのでしょう。
何も見ていないとき、あるいはすべてが視界に入っているとき、実際には何が見えているのかというと、たとえばさっき通りすぎたスターバックスのカップの残像から、ぼくの目には、学生のころ一人旅をしたニューヨークで、生まれてはじめて入ったスターバックスの店内が広がっており、鼻先にはコーヒー豆を煎る香ばしい匂いとシナモンの香りが漂っている。
主人公は、公園の風景を見ているようで、自らの記憶を垣間見、空想していました。
つまり別のことを考えていたのです。こういう経験は誰しもあるでしょう。
例えば私は、「パーク・ライフ」の日比谷公園の描写を読んでいながら、実際私が日比谷公園を訪れたときの情景を思い浮かべていました。
小説に書かれているのとは別の情景を目に浮かべているとき、小説を読んでいるとは言えないのかもしれません。小説に書かれていない「余白」を体験しているのかもしれません。
「パーク・ライフ」の日比谷公園の描写を読まなければ、私は日比谷公園に行ったときのことを思い出さなかったでしょう。
文字を読んで別のことを想像するのは、小説ならではの体験だと思いました。
映像ではこうはいきません。想像の余地が小説に比べて残されていません。
小説は、文字だけで書かれているからこそ、読んで生じる情景は、読み手によって異なりますし、実際に描かれているものとは別の情景を思い浮かべることもできます。
読む楽しみを得られる作品でした。