バンコクに行ったのか
主人公が、「きみ」が見ている光景を語ります。
例えばこんな感じです。
ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、きみはバンコクの日々、ルンピニ公園にもほど近い、サトーン通りを折れたところの道路に面したアパートメントタイプのホテルの部屋を日本から手配してあった、そこで過ごした。
私の認識では、「ぼく」といった一人称を使う場合、描かれるのは、「ぼく」が見えるものだけです。
ですが、この作品は、「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」と言っているのに、「きみ」が見えるものを描いています。
これは一体どういうことなのか。私は混乱しました。
なぜ、「ぼく」が「知らないでいるしこの先も知る音は決してない」ものである「きみ」の景色を、「ぼく」が語っているのでしょうか。
読み進めると、「きみ」は、主人公と一緒に暮らしていた家から出て行ったことがわかります。
ですが、主人公の「ぼく」や「きみ」について、年齢、性別、職業などの情報はありません。
わかっているのは、「きみ」が、主人公と暮らしていた家から出て、バンコクに行ったらしいことです。いや、バンコクに行ったのが事実かどうか怪しいです。
ぼくはきみがバンコクで食べた料理のことも、飲んだビールのことも知らなければ、きみがバンコクに行っていたことさえ知らない。
主人公は、「きみがバンコクに行っている」ことを知りません。
最初の引用では、主人公は「きみがバンコクのホテルで過ごした」と書かれていますが、ここでは「きみがバンコクに行っていたことさえ知らない」と書かれています。
では、「きみがバンコクに行った」のは、どのようにしてわかったのでしょうか。
物語は、誰の視点で描かれているのでしょうか。
きみがバンコクに行ったのだというぼくの妄想がぼくの心もろとも叩き壊される、そしたらレオテーという存在だって消えてなくなる、そうなってしまえばいいのにと思った。
「きみがバンコクに行ったのだというぼくの妄想」と書かれていることから、ぼく(主人公)の妄想です。「きみ」がバンコクに行っている事実は不明です。
主人公の妄想内で、きみがバンコクに行き、バンコクのホテルで過ごしています。
「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」と繰り返される言葉は本当なのでしょうが、それ以降に語られるものが主人公の妄想だと考えたら、つじつまが合います。
「きみ」に家を出て行かれた主人公が、「きみ」の動向を何も知らないで、妄想を膨らませ語っている構成なのでしょう。
斬新さがあり、読んでて面白いです。
では、タイトルの「ブロッコリー・レボリューション」とは何でしょうか。
ブロッコリー・レボリューション、ってのが洒落込んで値段も高いカフェなんかの名前じゃなくて、バンコクでほんとうに革命が起きる、それがブロッコリー・レボリューションという通称で呼ばれるようになったのだった、とかだったらいいのに。台湾のサンフラワー・レボリューションとか、台湾のアンブレラ・レボリューションみたいに。
「ブロッコリー・レボリューション」とは、おしゃれなカフェのようです。
物語の舞台が、日本に住んでいたらなじみの薄いバンコクというのも効いています。
そこに暮らす人々にとっては不快きわまりない代物でも、旅行者であったらそれはその地ならではの味わいとして楽しめてしまう
仮に「ブロッコリー・レボリューション」がバンコクの革命だったとしても、私は関係のないものとして、仮にバンコクに旅行したら興味深いものとして、部外者の立場から傍観するのだと思います。
台湾のサンフラワー・レボリューションとか、台湾のアンブレラ・レボリューションも知らない私にとっては。