記事を書く個人に価値はない
感想①はこちらです。
主人公のバンドをインタビューする、雑誌記者がいます。
記者は主人公のバンドのファンでもあり、仕事熱心です。
しかし、その記者は異動します。
異動先は、ゴシップを取り扱う週刊誌でした。
記者は、主人公のゴシップを撮るため、張り込みます。
車内から、主人公の宿泊するホテルを見張ります。
張り込みに気付いた主人公は、記者の車にやってきます。
主人公は、記者の顔面を殴り、カメラを破壊します。
主人公は捕まります。
弁護士は、起訴されれば有罪は免れないと言います。
示談金を積み、被害者(記者)との示談が成立すれば、不起訴の可能性が高まるそうです。
主人公に殴られた記者は、接見の場で、主人公に言います。
取材記事を書いて、残るものなんてなんもありません。読者は私の記事を読みたいわけじゃなく、好きなバンドについて書かれた記事を読みたいのです。私個人に価値はありません。
書評や感想も、同じでしょう。
評論家や書評家の書評だから読まれるのではありません。好きな本について書かれているから、読まれます。
この記事でいうと、私が書いたからではなく、『音楽が鳴りやんだら』または高橋弘希さんの本について書かれた感想だから、読んでもらえます。当然の話です。
取材して記事を書いて、読者が喜んで、ときに充足感を得られることはありますよ。俺の書いた文章にだって意味はあるんじゃないのか? そう思うこともありますよ。
ときに得られる充足感があるから、記者をやめられないのかもしれません。それにお金を貰えます。
私はお金も貰えないのに、なぜ、感想を書き続けているのだろう……
ごくたまにコメントをいただけることがありますが、コメントをいただくために感想を書いているわけではありません。
記者をメインにしたこの記事は、当初書くつもりがありませんでした。
記者は本書の主要人物ではありません。ですが、
読者は私の記事を読みたいわけじゃなく、好きなバンドについて書かれた記事を読みたいのです。私個人に価値はありません。
この記者の言葉が響きました。読み終わって一週間経った今も、頭から離れませんでした。
これは感想を書いて成仏させなければいけない。
そうです。私は感想を書くことで、思考を成仏させています。
書いて発信することで、頭にこびりついた思考を解き放つ、といった感じです。
記者は、接見の場で、高額な示談金を要求しませんでした。
この接見を、記事にさせてもらえませんか? あなたの現在の心境を知りたい大衆は、山ほどいます。悪い話じゃないでしょう。私としては肉を切らせて記事を書くわけです。
記者はなぜ、ここまで身体を張るのでしょうか。
高額な示談金を貰って、悠々自適ではいけないのでしょうか。
記者の端くれだろう、下手こいて殴られて卒倒してタダで起きずにネタを持ってこい。
記者のかがみですね。金よりもネタ。
ここまで仕事にプライドを持てたら、仕事は楽しいでしょうね。
それに、ネタを持ってこれる記者に、価値はあるでしょう。