いっちの1000字読書感想文

平成生まれの30代。小説やビジネス書中心に感想を書いてます。

高橋弘希×星野智幸 対談「解放をもたらし得る小説」の感想(『群像』2018年2月号)

解放をもたらし得る小説

「解放」とは何でしょうか。

この対談は、高橋さんの小説『日曜日の人々』の話がメインです。

『日曜日の人々』では、自助グループ(悩みや問題を抱えた人たちが集まる場)を描きます。

『日曜日の人々』の感想はこちらです。

作中では、死が近くにあります。

「解放」=「死」として、捉えることもできるでしょう。

『日曜日の人々』が、死をもたらし得るというのは、対談で出てきます。

高橋さんは言います。

実は書いているときに、この本自体が自殺を後押しすることにもなるよなあ……と結構思っていました

自助グループや、そこで起こる死を描きますので、読者にとって死は目の前にあります。

高橋さんは振り切って、書き切ります。

ある段階で、「読者はもういいのである」という気持ちになることが多いです。言ってみれば、小説は読者のために書くものでもないので、「読者は誰もいないのだ」というテンションで、結局書き切ってしまった

  • 読者はもういいのである
  • 小説は読者のために書くものでもない
  • 読者は誰もいないのだ

この考え方がすごいです。

小説は、読者に読んでもらって初めて小説になる、わけではなさそうです。

出版社が雑誌に掲載するか、単行本を出版すれば、小説は出回ります。

ですが、高橋さんはそういうことを言いたいのではないでしょう。

「読者を気にして自分の書きたいことを書かないでどうする」と、自分を鼓舞したのかもしれません。

いや、それも違う気がしました。

星野さんは、高橋さんに確認するように言います。

読者を気にしないとかじゃなくて、もう読者は存在していない、書くという行為のみがあると

「読者は存在していない、書くという行為のみがある」とは、どういう境地なんでしょう。

私の場合、書く行為のみがある境地には行けていません。

文章のわかりやすさといった、読む行為もセットで考えてしまいます。

星野さんは、『日曜日の人々』で良かった場面に、登場人物の一人が「自死遺族」ではなく、「自死遺者」という言い方をするところを挙げます。

「自死遺族」と言うと、自分はそこから排除されちゃうから「自死遺者」という言葉を自分でつくっている。こういう細部、言語の表し方に、また仰天したんです。

自助グループ内は、家族ではありません。

「自死遺者」と言った登場人物は、「自死遺族」だと自分が排除されるから、「遺者」という言葉を造語したわけです。

自殺は、残された遺族だけでなく、残された者にも影響を与えます。

身近にいればいるほど、不在になった影響は大きいはずです。

「自死遺者」という言葉は、遺族以外で残された者たちを救うでしょう。