忍耐が限界を迎えると
小説家の主人公と小学6年生の姪の、練習する旅です。
練習は、
- 主人公:風景を描くこと
- 姪:サッカーのドリブルとリフティング
で、旅は、千葉の我孫子駅から鹿嶋市まで歩くことです。
姪は、歩きながらドリブルし、主人公が風景描写をしている間はリフティングします。
鹿島へ行く目的は、姪が合宿所から借りたままの文庫本を返すことです(文庫本のタイトルは明かされませんが、文庫本を出していない乗代さんの作品ではないことはわかります)。
本来は、鹿島アントラーズの試合観戦もかねた一泊二日の旅として、電車で鹿島へ行く予定でしたが、新型コロナウイルスのため、旅は中止になります。
なぜ、タイトルが「練習の旅」ではなく『旅する練習』なのでしょう。
主人公は、
「歩く、書く、蹴る」(中略)「練習の旅」
と、はっきり「練習の旅」と言っています。
その後も、「練習の旅」という言葉は出てきます。
逆に、「旅する練習」という言葉は、作中に出てきません。
それなのに、タイトルは「旅する練習」です。
もしかしたら、
- 「旅」が「千葉の我孫子駅から鹿島まで歩くこと」ではなく、
- 「練習」が「歩く、書く、蹴る」ではない
のかもしれません。
そう考えたとき、「旅」と「練習」は何を示すのでしょうか。
「旅」とは、ある場所から離れることです。
我孫子から鹿島へ移動する以外に、離れるものの一つは、姪です。
姪は、死によって主人公から離れます。
「練習」とは、姪との「練習の旅」を主人公が書くことです。
「旅する練習」とは、主人公の自己療養のことなのかもしれません。姪が亡くなってから、姪と旅した場所を再度訪れ、そこの風景を描いています。
作者である乗代さんに通じる部分があるのかもしれません。主人公は小説家なので、作者に近しい存在として読み取れるからです。
物語的に、最後に姪が交通事故で死ぬ必要は、全くありません。
ただ、作者に近しい人の死が実際にあったのなら、姪の死として作品に取り入れる理由はあるでしょう。
「旅する練習」は、主人公が「姪の死を受け入れる」意味合いもあるのではないかと思いました。
旅の記録に浮わついて手を止めようとする心の震えを沈め、忍耐し、書かなければならない。
姪との旅の記録の中に、主人公の風景描写が入ります。丁寧な風景描写なので、その場所にいるかのように体感できます。
前半の風景描写は、主人公が忍耐しながら書いているからか、読んでいて退屈さを感じます。
旅の終わり(姪の死)に近づくにつれ、忍耐しながら書いていた主人公の風景描写に、風景ではない姪が登場します。
感情的な表現が多くなり、心の震えが浮き出てきて、主人公の忍耐が限界を迎えているのが、伝わります。小説ならではの手法です。
旅の終盤、主人公の、
本を返しに行くか
という声を聞いたとき、この旅の目的は借りた本を返すことだったと思い出しました。
当初の目的を忘れさせるほど、私は作品世界にのめり込んでいました。
調べた言葉
- ゴラッソ:サッカー用語で素晴らしいゴールの意味
- 天端(てんば):ダムや堤防の一番高い部分
- 地産地消(ちさんちしょう):地域で生産された物や資源をその地域で消費すること
- 塒(ねぐら):鳥の寝るところ
- 田起こし:田植えに備えて他の土をうちかえすこと
- 稲孫(ひつじ):稲刈りした後の株に再生した稲
- 発願(ほつがん):念願を起こすこと
- 古色蒼然:いかにも古びて見えるさま
- 決然:きっぱりと決意するさま