認知症の祖母と無職の孫
長崎の島を舞台に、
章ごとで、視点が交互に変わります。
- 認知症の祖母の視点
- 無職の孫の視点
また、語られる時間軸は同じではありません。
- 祖母の視点:孫が中学一年生
- 孫の視点:孫が30歳直前
よって、語られる内容も異なります。
- 祖母の視点:中学一年の孫が一人で島に来る
- 孫の視点:30歳前の孫が家族で島に来て帰る(祖母は亡くなっています)
孫の家族は、
- 盲目の兄
- 母
です。祖母の家を片付けるため、島に来ました。
タイトルの「四時過ぎの船」は、
- 中学一年生の孫が、一人で島に来る船
- 30歳前の孫が、家族で島から出る船
にリンクしています。
登場人物は、『縫わんばならん』と同じ一族です。
先に『縫わんばならん』を読んでいた方が、家系図が浮かびやすいですが、
読んでいなくても理解できます。前作より格段に読みやすいです。
以下に興味がある人におすすめです。
- 思い出すことと忘れること
- 30歳近くで無職でいること
- 生きることのわずらわしいさ
一言あらすじ
認知症の祖母と無職の孫が、時間軸が異なる島での出来事を交互に語る。祖母は「四時過ぎの船」で島に来る中学一年生の孫を迎え、30歳前の孫は「四時過ぎの船」で島を出ていく。
主要人物
- 佐恵子:認知症になった老婆。島に住む
- 稔:中学一年のとき島に一人で行く。30歳手前、兄の介護の名のもとに無職
- 浩:全盲。弟の稔の介護を受ける。システムエンジニア
生きるのはやぜらしか
「やぜらしか」は方言です。祖母の口癖だったと、孫の稔は思い出します。
たぶん、煩わしい、とかそんな意味なんやろう。うざったいっていう感じのことばやろうか? いや、ばってん、なんやろうな。もっと、忌々しい感じのときに思わず口に出ることばやもんな……(p.23)
稔は、兄の介護をしたあるとき、「やぜらしか」と感じたことを思い出します。
一方で、介護を言い訳に、働かず30歳手前まできたことを、
「おれはこれからどうなるんやろう?」
と問います。
ですが、解決に向けて何をするわけでもありません。
周りからは、盲目の兄の介護をする大変さを同情されるものの、
稔は、介護を言い訳にした無職だと言い切っています。
さらに、稔が「やぜらしか」思いをするのは介護だけではありません。
生きていれば、
- 怪我、病気
- 転職
- 災害
- 結婚
- 家族の死
など、いちいち「やぜらしか」を感じるだろうと思っています。
「やぜらしか」を感じないのは、子どもと死んだ者だけです。
死んだ祖母は、「やぜらしか」を感じないでしょう。
兄との会話で、忘れていた祖母との記憶を思い出していくうち、
「おれはこれからどうなるんやろう?」
という考えに、変化が生じます。
その思考の変化が、稔の成長を表します。
調べた言葉
- 暗闘:ひそかに陰で争うこと
- 調度品:日用品
- あばら家(や):荒れ果てた家
- 詮(せん)ない:無意味だ
- 去来:行き来
- 浮桟橋(うきさんばし):水の増減に従って自在に上下するようにした桟橋
- 網元:多くの漁師を使って漁業を営む人
- 雑念:集中を妨げるさまざまな思い
- 符牒(ふちょう):しるし
- 捨て鉢:やけになること
- 残響:音が鳴りやんだ後も、反射して消え残る音響
- 往生:困り果てること