集団レイプに遭遇した小学生
小学生の頃、主人公と友人は、ホームレスの集団と交流がありました。
ある夜、友人の家出に付き合って、ホームレスの集落へ行くと、
裸で横たわる女性を中心に、周りを囲んでいる男たちがいました。
見てはいけないと、主人公は直感します。
女性を助けたいと思いましたが、ホームレスの一人につかまります。
意に反して、主人公は女性の胸に触れてしまいます。
やっちりという名の女性は、ホームレスの集団で唯一の女でした。
彼女は、30代くらいの知的障害者で、小便のにおいがする女です。
その女に群がる男たち……トラウマものです。
大人になった主人公は回顧します。
結局私の人生の中で、最も激しく濃密だった時間があのやっちりの事件であり、私はまだあの動揺を引きずり、あの時の激しさそれ自体を、私の意識というか身体が、今でも求めているのだろうか。
その現場に一緒に居合わせた友人から、7年ぶりに連絡がきます。
連続婦女暴行で指名手配になっていることがわかります。
友人は犯罪者で、主人公は無職です。
どうしてそうなったってしまったのか。
ホームレスの男たちから、むき出しの欲望をぶつけられて叫ぶ、裸の女性の光景が原因でしょうか。
それを見なければ、友人や主人公は違う人生だったのでしょうか。
トラウマや因果関係について興味がある人におすすめです。
トラウマを理由として片づけない
主人公の友人の連続婦女暴行は、幼い頃に見た特殊な光景によるものなのか。
解説の佐藤康智さんは言います。
(友人の手記では)その性癖を持つに至った理由について、幼い頃ホームレスの集団レイプに遭遇してしまったことに原因がある、のではなく、元々自分にその資質があっただけではないかと考え込んでいる。
(中略)
本作が描くのはそんな、因果の根を辿っていったら原因の先に偶然性を垣間見てしまう実存主義的不条理劇といっていい。
私は、幼い頃の特殊な性体験が、主人公の友人の性癖を形作ったと、思っていました。
一方で、友人は、元からその資質があったと考えています。
連続婦女暴行の理由が、幼い頃に見たレイプだとわかれば、因果関係は通ります。
結果と原因がつながるので、一応腑には落ちます。
ですが、それが原因じゃないとすると、行動が理解できなくなります。
とはいえ、「幼い頃のトラウマは関係ない」と言ったとしても、犯罪に変わりはありません。
理由の有無にかかわらず、行動に移せば犯罪です。
行動の責任を、幼い頃のトラウマとして片づけてないのは、好感を持ちました。
因果関係に落とし込めば安心しますが、そう単純なものばかりではありません。
罪を犯しているのですから、それに対する罰は必然ですが。
調べた言葉
- 通俗的:一般向き