大人は子どもの夕暮れ
本書は、読売新聞に掲載された「こどもの詩」を集めたものです。
それぞれの詩の最後に、編者の川崎さんのコメントが添えられています。
川崎さんは、「こどもの詩」に3つの感想を持っています。
- 連想の豊かさ。大人の思いつかないイメージの跳躍力。常識や既成の考え方から離れ自由にはばたく
- 無機物をいのちあるもののように見る
- 物事をまっすぐ見通す能力を持っていて、ときに文明批評にもなる
私も、「こどもの詩」を読んで、想像力の豊かさに感心しました。例えば、「おおかみと七ひぎのこやぎ」について。
おおかみは
こやぎを
まるのみしてくれて
よかったね
だって
かんでいたら
みんな
しんでいたもの
4歳の子が書いた詩です。
丸飲みせずに噛む可能性という視点は、私にはありませんでした。童話ゆえに、食べられたとしても、腹の中から出てきて助かると思っていたからでしょう。
物語をまっすぐ見ていたら、咀嚼されて腹から出てこれない可能性だってあるはずです。
続いて、神戸の大震災後に残った「がれき」について。
がれきは「あっても何のやくにもたたないもののたとえ」とじ書に
のっていた
でも こう戸のはがれきじゃない
ぜったいちがう
こう戸の町にあるのは
一人一人の大切な
こわれてしまった
たからものなんだ
がれきは、壊れてしまった宝物であって、役に立たないものではないという発想は、どこからきたのでしょうか。
- がれきになる前を想像し、一体どんなものだったか
- ビルや建物は、どんなものだったか
答えを、「一人一人の大切な宝物」につなげる発想力。感服します。
(こどもは)大人が失ってしまった能力や感覚を心と身体の中に持っていて、時に神秘的でさえあります。「大人は子どもの夕暮れ」と言った詩人がいますが、いま深くうなずきます。
「大人は子どもの夕暮れ」とは、残酷ですが良い言葉だと感じました。
大人になると、知識やできることは増えたのですが、その分、忘れることやできなくなることも増えました。
特に、感覚は鈍くなったと思います。
- 小学校の最初の登校日、同じクラスの人と話せたときの安堵感
- 夏休み、朝の公園で行うラジオ体操を終えたときの全能感
- 夏休み中開放された学校のプールの前で、順番待ちしているときの高揚感
子どものときどう思っていたか、当時の言葉で表現することはできません(安堵感や全能感、高揚感は、大人視点での言葉です)。
私は大人になって、大抵の出来事に動じなくなっています。諦めたり、行動しなかったり、関心を持とうとしなかったり。
私も子どものときは、本書に掲載されている詩の子どものような感覚を持っていたかもしれません。きっと誰しもが持っていたのでしょう。
「大人は子どもの夕暮れ」を認めたとしても、夕暮れなりに美しく生きたいものです。